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臨終の正念 [『教行信証』精読2(その44)]

(12)臨終の正念

 生老病死の四苦のうち、生・老・病苦は何の説明もいりません(生苦とは生きる苦しみではなく、この世に生まれてくる苦しみです、念のため)、よく了解できます。しかし死苦とは何か、これは分かったようでよく分からない。死そのものは経験できませんから、死の苦しみというのは、死を目の前にしたときの苦しみ、つまりは臨終の苦しみでしょうが、さてしかし臨終において何が苦しいのか。多くの場合、病をかかえて死にますから、病の所為で苦しいというのは分かりますが、それはしかし病苦でしょう。それとは別に死苦というものがあるはずですが、それはいったい何か。
 「まだ死にとうない」という思い、これです。まだ死にとうないのに、死ななければならない、これが苦しいのです。
 今生と別れなければならない苦しみのなかで、「あるひは悪念をおこし、あるひは邪見をおこし、あるひは繫恋を生じ、あるひは猖狂悪相を発」して、正気を失ってしまうのではないかという不安があります。今生と別れなければならない苦しみは臨終になってはじめて味わうわけではありません。今生と別れるのはまだずっと先と思っているときから、いずれそのときがくると思うだけで、その苦しさは十分了解できます。だからこそ、実際にそのときになったら苦しさのあまり正気を失うのではないかと心配するのです。
 ここまではごく当たり前のことですが、伝統的な浄土の教えで臨終の正念が特筆大書されるのはこれだけにとどまりません。臨終で正念を失うと往生浄土ができなくなるという不安があるのです。この不安の根拠は『観経』下下品の段にあります。「この人(下下品の悪人)、苦に逼(せま)られて、仏を念ずるに遑(いとま)あらず。善友、告げていう、『汝よ、もし念ずることあたわざれば、まさに無量寿仏を称うべし』と。かくのごとく、至心に声をして絶えざらしめ、十念を具足して、南無阿弥陀仏を称えしむ。…一念のあいだのごとくに、すなわち極楽浄土に往生することえ、云々」。
 もし臨終に正念を失い念仏できないようなことになれば、往生できなくなってしまう。これでは元も子もありませんから、そんなことにならないように日頃から気をつけて念仏しなければならないと教えられるのです。

タグ:親鸞を読む
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