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漸と頓 [『教行信証』精読2(その47)]

(15)漸と頓

 ここで元照は宋代の天台宗の僧・慈雲法師を古賢と尊び、その文を引いています。この文で目を引くのは「捷」、「速」、「即」、「頓」ということばで、みな「すみやか」という意味です。念仏の教えは「すみやか」に証果に至るということ、これが強調されているのです。親鸞は聖道門と浄土門を対比するとき「漸と頓」という対をよく持ち出します。聖道門は漸、つまり「しだいしだいに」であるの対して、浄土門は頓、つまり「にわかに」であると言い、さらにはそれに「竪と横」という対を重ねます。聖道門は「たたさま」に一歩一歩進むのに対して、浄土門は「よこさま」にひとっ跳びというイメージです。これらのコントラストの意味することを考えておきましょう。
 それは、聖道門は真如(宇宙の真理)を悟ろうとするのに対して、浄土門は本願(宇宙の願い)に気づくことに尽きると言えます。
 真如を悟るためには、それについて説かれた経を読み、そこから目指す真如をつかみ取らなければなりませんが、それは一朝一夕にできることではなく、修道の階梯を一つひとつ昇っていくことが求められます。これが「たたさま(竪)」の道であり、それはおのずから「しだいしだいに(漸)」とならざるをえません。これは学問においても芸能においても同じですからイメージしやすく、分かりやすい。一方、本願に気づくことはと言いますと、こちらから気づこうとして気づけるものではありません。あるとき、ふと気づいているのです。これまでしばしば使ってきた言い回しをもちいれば、こちらから何かをゲットするのではなく(これが真如を悟ることです)、むこうから何かにゲットされるのです。
 気づいたときにはもうゲットされているのですから、これは「にわかに(頓)」であり、「よこさま(横)」にひとっ跳びです。これを「たたさま」に一歩一歩前進していくことに比べれば、何と易しいことよと思いますが、それはしかしゲットされた後からみた思いであり、ゲットされる因縁がそろわない限り、どれほど焦っても気づきは起こらないのですから(そしてその因縁をみずから用意することは不可能ですから)、これ以上難しいことはないとも言えます。「難の中の難、これに過ぎたるはなし(難中之難無過斯)」です。

タグ:親鸞を読む
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