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弥陀と諸仏 [『教行信証』精読2(その49)]

(17)弥陀と諸仏

 戒度も用欽も元照の弟子として師の教えをよく服膺し、弥陀の名号に一切の功徳がおさまっていることをそれぞれに述べています。
 ここで注目したいのは用欽が言及している「弥陀と諸仏の関係」についてです。弥陀の名号にすべてがおさまっているならば、弥陀一仏で十分であるはずなのに、どうして弥陀以外の多くの仏たちが登場してくるのかという問題です。その答えは明らかで、弥陀の名号に一切の功徳がおさまっていて、それを称えることで衆生の願いがかなうのだということを、世界の隅々まで広く説き明かすために諸仏が登場しなければならないということです。それは『阿弥陀経』において十方諸仏が弥陀の名号を証誠(しょうじょう、真であることを証明)していることにあらわされていますし、また『無量寿経』の第17の願、諸仏称揚の願に示されています。
 いや、それより何より、釈迦が弥陀の本願名号の教えを説いたことそのことが弥陀と諸仏の関係を明らかにしてくれます(釈迦も諸仏のひとりです)。釈迦は弥陀の本願を証誠し、弥陀の名号を称揚するために世に現れたということです(「如来所以興出世、唯説弥陀本願海―如来世に興出したもう所以は、ただ、弥陀本願海を説かんとなり」)。釈迦が世にあらわれ、弥陀の本願名号を証誠し称揚しなければ、弥陀の本願名号は埋もれたままであったということ、ここに浄土の教えのいちばん深い秘密があります。弥陀の本願名号は、それを誰かがことばとして伝えない限り衆生のもとに届きませんし、衆生に届かないということは存在しないということに他なりません。
 前に、弥陀の本願とは、言ってみれば宇宙の願いであると述べました。阿弥陀仏(無量寿仏、無量光仏)とは無限の宇宙であり、本願はその願いです。ただその願いは暗号のようなもので、それを誰かが傍受し、人間のことばに解読しなければなりません。釈迦はそれをした人であり、彼は宇宙からやってくるかすかな暗号を傍受し、それを解読して弥陀の本願ということばで語ってくれたのです。

タグ:親鸞を読む
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