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諸仏とは [『教行信証』精読2(その50)]

(18)諸仏とは

 釈迦が宇宙からの暗号を傍受し解読したといいましたが、それは釈迦ひとりではないでしょう。さまざまな時、さまざまな所に傍受者、解読者はいたに違いありません。解読されたことばはさまざまでしょうが、みな宇宙からやってきた同じ暗号の解読ですから、世界の諸宗教は、それが本物である限り(本物であるかどうかは宇宙の願いに気づいたものならすぐ見分けることができます)、ひとつにつながっています。宗教間の争いというのは、宗教以外の要因から起こるのであり、宗教そのものに争う理由は何もありません。
 さて釈迦は宇宙の願いを傍受・解読し、それを弥陀の本願ということばで語って人々に伝えてくれた。かくして弥陀の本願にはありとあらゆる功徳がつまっていて、それを聞くことができさえすれば、どんな境遇にあっても安心して生きていくことができることが示されたのです。この釈迦の証言をたよりに、弥陀の本願を聞くことができた人は、その慶びをまた他の人に証言することでしょう。このようにして弥陀の本願がみんなのもとに届けられていくことになります。弥陀の本願は人から人へとリレーのように伝えられていく構造になっているのです。
 これが弥陀と諸仏との関係だとしますと、ここから諸仏とは誰のことかが明らかになってきます。あらためて整理しますと、宇宙の願いを釈迦が傍受しそれを弥陀の本願ということばで語ってくれました。そして釈迦から弥陀の本願を受け取った人は、それをまた他の人へ伝えていく。このようにして弥陀の本願はみんなもとに届けられていくのです。としますと弥陀の本願を証誠する諸仏というのは、弥陀の本願のリレーに参加しているみんなということになります。
 弥陀の本願を聞くことができた人は諸仏に他ならないなどとは何という妄言かと思われるかもしれませんが、考えてみますと、弥陀の本願が聞こえるということは「わたしのいのち」がそのままで「ほとけのいのち」であることに気づくことです。としますと、「わたしのいのち」は「ほとけのいのち」と「同じ」とは言えないとしても、「ひとしい」と言うことはできるのではないでしょうか。親鸞は「おなじ」と「ひとし」をはっきり区別し、念仏の人は仏に「おなじ」ではないが、「ひとし」と言います。

タグ:親鸞を読む
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