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『教行信証』精読2(その51) ブログトップ

本文9 [『教行信証』精読2(その51)]

(19)本文9

 中国の傍依の祖師たちの最後に、三論の嘉祥(かじょう)、法相の法位、そして禅宗の飛錫(ひしゃく)の三人が取り上げられます。

 三論の祖師、嘉祥(かじょう)のいはく、「問ふ。念仏三昧はなにによりてか、よくかくのごとき多罪を滅することを得るやと。解(げ)していはく、仏に無量の功徳います。仏の無量の功徳を念ずるがゆゑに、無量の罪を滅することを得しむ」と。以上
 法相の祖師、法位のいはく、「諸仏みな徳を名に施す。名を称するはすなはち徳を称するなり。徳よく罪を滅し福を生ず。名もまたかくのごとし。もし仏名を信ずれば、よく善を生じ悪を滅すること決定して疑なし。称名往生これなんの惑ひかあらんや」と。以上
 禅宗の飛錫(ひしゃく)のいはく、「念仏三昧の善、これ最上なり。万行の元首なるがゆゑに、三昧王といふ」と。以上

 (現代語訳) 三論宗の祖師・嘉祥(吉蔵のこと、三論宗の創始者)がこう言われています。念仏三昧はどうしてこれほど多くの罪を滅することができるのかと問いますと、こう答えることができます。仏には無量の功徳が備わっています。その無量の功徳を心に憶念し称えるのですから、無量の罪を滅することができるのですと。
 法相宗の祖師・法位はこう言われます。諸仏はもてる徳をその名に託します。ですから仏の名を称えるということは仏の徳を称えているのです。仏の徳はよく罪を滅し、福を与えてくれます。仏の名も同じで、それを信じ称えることで、よく善を生み悪を滅することは間違いなく疑いありません。称名により往生することにどうして惑うことがありましょうか。
 禅宗の飛錫はこう言われます。念仏三昧のもたらす善は最上のものです。念仏は万行の元首ですから三昧の王と言われるのです。

タグ:親鸞を読む
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