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『教行信証』精読2(その54) ブログトップ

本文1 [『教行信証』精読2(その54)]

        第4回 往生の業には念仏を本とす―源信、源空

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 龍樹からはじまりインドと中国の多くの祖師たちが念仏を讃嘆する文が引かれてきましたが、ここにきてようやくわが日本の高僧が登場します。まずは源信です。

 『往生要集』にいはく、「『双巻経(大経のこと)』の三輩(往生浄土を願う行人を上輩・中輩・下輩の三種類に分けたもの)の業、浅深ありといへども、しかるに通じてみな一向専念無量寿仏といへり。三つに四十八願のなかに、念仏門において別してひとつの願(第18願のこと)を発(おこ)してのたまはく、乃至十念、若不生者、不取正覚(乃至十念せん、もし生ぜずば正覚をとらじ)と。四つに『観経』には、極重の悪人、他の方便なし。ただ弥陀を称して極楽に生ずることを得』」と。以上

 (現代語訳) 源信和尚の往生要集にこうあります。(二つ目に)無量寿経の三輩段において、上輩・中輩・下輩のそれぞれの行業に浅深の違いはあっても、みな共通して「一向に専ら無量寿仏を念じて」と説かれています。三つ目に、四十八願の中で特に第十八願において、もし、たとえ十回でも念仏して往生できないようなら、わたしは正覚をとらないと誓われています。四つ目に、観経において、極重の悪人には他の手立てはありません、ただ弥陀の名号を称えて極楽往生するばかりですと説かれています。

 この文章は『往生要集』の大門第八(第八章ということです)、「念仏証拠」に出てきます。この書物は大門第一の「厭離穢土」から最後の「問答料簡」までの十大門から構成されていますが、その大門第八が「念仏証拠」で、ここでは往生の行として念仏を勧める根拠について論じられています。源信はまずこう問います、「一切の善業はおのおの利益あり、おのおの往生することを得てん。なんがゆゑぞ、ただ念仏の一門を勧むる」と。そしてこう答えます、「今念仏を勧むることは、これ余の種々の妙行を遮するにはあらず。ただこれ、男女・貴賤、行住坐臥(ぎょうじゅうざが、行くこと、留まること、坐ること、臥すこと)を簡ばず、時処諸縁を論ぜずして、これを修するに難からず、乃至、臨終に往生を願求するに、その便宜を得たるは念仏にはしかじ」と。この文に源信のスタンスがはっきりと表れています。

タグ:親鸞を読む
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