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聞名と称名 [『教行信証』精読2(その56)]

(3)聞名と称名

 四十八願のなかで念仏に言及しているのはたしかに第18願だけですが、名号にあたることば(わが名、わが名号、わが名字)はかなりの数に上ります。そしてそれらにつづくことばは例外なく「聞く」であるということ、ここに秘密を解く鍵があります。
 ぼくらは名号といいますと、それを「称える」ものと考えてしまいがちですが、四十八願においては圧倒的に「聞く」ものであることが分かります。たとえば第34願を見ましょう。「たとひわれ仏をえんとき、十方の無量不可思議の諸仏世界の衆生の類、わが名字を聞きて、菩薩の無生法忍(真実のさとり)、もろもろの深総持(深い智慧)をえずば正覚をとらじ」。ここに出てくる「聞我名字(わが名字を聞きて)」という句はこの34願からあとのほとんどすべての願に登場します。
 ぼくらは大きな勘違いをしてきたのではないでしょうか。名号とくれば称名と決めつけ、名号を聞くことが置き去りにされてきたのではないかということです。
 親鸞はこの勘違いを指摘して、名号はまず聞くものであり、しかるのちに称えるのだと教えてくれました。名号を聞く、すなわち信心が、名号を称える、すなわち念仏に先立たなければならないということ、これをことあるごとに教えてくれたのです。「真実の信心はかならず名号を具す、名号はかならずしも願力の信心を具せざるなり」という「信巻」のことばはまさにそのことを指摘するもので、聞名(信心)があればかならず称名(念仏)があるが、称名があるからといってかならずしも聞名があるわけではないということです。
 そして第18願も、伝統的に「念仏往生の願」と捉えられ、源信もまた「乃至十念」に着目して特別の願としたのですが、親鸞はむしろこれを「至心信楽の願」と捉えました。「十方の衆生、心をいたし信楽してわがくににむまれんとおもふて(至心信楽、欲生我国)、乃至十念せん」とあるところを、至心信楽が飛ばされ、乃至十念に眼がつけられてきたのですが、それではこの願は名号を称える願になってしまい、名号を聞くこと、すなわち信心がどこかに置いてきぼりになると考えたのです。
 さて、名号を聞くことが置いてきぼりになり、名号を称えることだけに着目されることのどこに問題があるのでしょう。

タグ:親鸞を読む
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