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自力と他力 [『教行信証』精読2(その57)]

(4)自力と他力

 ことは自力と他力に関係してきます。名号を聞くことなく、ただそれを称えるのは自力の念仏であり、他力の念仏ではないということです。さてしかし自力の念仏といい、他力の念仏というのはいったい何か。自力の念仏とは何かという問いは答えやすいでしょう。念仏することにより何かを手に入れようとすること、つまり手段としての念仏であり、ためにする念仏であると言えばいい。病気が治りますようにとか、長生きできますようにと願って念仏するのは論外としても、往生できますようにと念仏するのも自力の念仏であることには変わりありません。
 では他力の念仏とは何かですが、これに答えるのが難しい。念仏とは名号を口に称えることですから、これはどう言い繕おうとも「自分が称えようと思って称える」しかなく、その意味では自力という他ありません。しかし往生しようとして称えるとなると、これはもう他力の念仏ではなくなります。ですから、念仏はあくまで自分で称えようとして称えるのですが、しかしそれによって往生しようとするのではない。さてこれはどういうことでしょうか。
 親鸞の他力思想について語ろうとしますと、どうしてもことばが追いつかない思いに悩まされてきましたし、いまもそうです。これまで様々に語り方を工夫し、新たなことばが見つかった当座はこれでいいかなと思うのですが、そのうち満足できなくなって、もっと違う言い回しはないものかと模索する、その繰り返しです。何だかラセン階段をグルグルとどこまでも昇り続けているような感じです。
 どうしてことばが追いつかないのか、という疑問に答えてくれそうな本に出あいました。前にもちょっと触れたことがありますが、国分功一郎氏の『中動態の世界』です。この本によりますと、ぼくらは能動態と受動態しかないことばの世界に生きていて、ものごとを考えるときに「これは能動かそれとも受動か」としか発想できません。そこで例えば親鸞の他力を考えるときにも、これは能動か受動かと発想し、能動ではなく受動であると考えてしまうのです。「する」ではなく「される」だと。
 さてしかし親鸞が他力というのは「される」ということでしょうか。どうも違うように思うのですが、どう違うのかをうまく表現することができなくて、もどかしい。

タグ:親鸞を読む
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