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本願他力と主体性 [『教行信証』精読2(その59)]

(6)本願他力と主体性

 話が長くなって恐縮ですが、乗りかかった船です、もう少し他力について考えつづけたいと思います。
 能動と受動というときは、こちらにAがあり、あちらにBがあって、AがBに働きかけるとき、Aが能動でBは受動ということです。しかし親鸞のいう他力とは、こちらに自分がいて、あちらの他力(本願力)が自分に働きかけるという二元的構図ではありません。そうではなく、自分は本願力の中に包みこまれているのです。ふと気がつくと、すでに本願力という名の大きな船の上にいます。そのとき自分と本願力という船はもう切り離すことができません、一体です。
 自分と本願力が一体といっても、自分が本願力の中で溶けてしまっているのではありません。自分は自分として一生懸命生きています。「本願他力に生かされている」のですが、同時にその中で必死に生きているのです。親鸞は他力を言おうとするとき、しばしば自然ということばをつかいます。そしてそれを「おのづからしからしめる」と読み、「もとより行者のはからいにあらずして、南無阿弥陀仏とたのませたまふ」ことだと言います(『末燈鈔』第5通、いわゆる「自然法爾章」)。
 このように他力とは「おのづから」ということですが、しかし「おのづから」は同時に「みづから」でもあるということ、これを忘れることはできません(「自」は「おのづから」であるとともに、また「みづから」でもありますが、ここに中動の世界があるとは言えないでしょうか)。「おのづから」本願力という大船の上にいるのですから、「もとより行者のはからい」は必要ありません。しかし、だからこそ、その上でよりよく生きようと「みづから」はからうことができるのです。
 本願他力は主体性と矛盾しません。それどころか、本願他力に気づいたからこそ、その上で安心して主体的に生きることができるのです。

タグ:親鸞を読む
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