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礼拝ということ [『教行信証』精読2(その61)]

(8)礼拝ということ

 大門第四「正修念仏」では、天親『浄土論』の五念門、すなわち礼拝・讃嘆・作願・観察・回向のそれぞれについて、その具体的な方法が述べられます。源信にとって「正しく念仏を修める」とは、ただ口に南無阿弥陀仏を称えるだけではなく、この五つの行を修めることだということです。そこで、はじめに礼拝について説かれるのですが、それがここで引用されている文です。
 さてここで考えたいのは、礼拝するといいますと、どうしても礼拝するものと礼拝されるものとが分離するということです。われらが阿弥陀仏を礼拝するのですから、こちらにわれらがいて、あちらに礼拝される阿弥陀仏がいるという構図になります。具体的には、本堂に安置された本尊(それは阿弥陀仏の木像や絵像である場合も、名号である場合もありますが)に向かってわれらが礼拝をします。
 しかしわれらと阿弥陀仏の関係は本来そのように二元的に分離されているものではありません。もしこちらにわれらがいて、あちらの阿弥陀仏に礼拝するとしますと、これは能動と受動の関係となります。しかしわれらと阿弥陀仏とはそのような関係にあるのではなく、能動がそのまま受動であるという関係です。われらが「する」には違いありませんが、それが同時に「される」であるという中動の関係です。
 妙好人(誰だったか忘れてしまいました)が本堂でゴロンと寝そべっているのを同行が見咎めたところ、「ワシは親元に帰ってきて寛いでいるのだよ」と答えたという話があります。その妙好人にとって、こちらに自分がいて、あちらに阿弥陀仏がいるのではなく、阿弥陀仏という親の懐の中でゆったりと寛いでいるということです。阿弥陀仏という大きな船の上で安心しているということです。
 これは「礼拝する」こと(能動)がそのまま「礼拝される」こと(受動)になっているということに他なりません。

タグ:親鸞を読む
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