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「礼拝する」と「礼拝される」 [『教行信証』精読2(その62)]

(9)「礼拝する」と「礼拝される」

 しかし「礼拝する」ことがそのまま「礼拝される」ことというのは了解しにくいかもしれません。礼拝ということばには上下関係が含意されていて、われらが仏から「礼拝される」という言い回しはしっくりこないからです。しかし五念門の三つ目、「作願」で考えますと、おのずから了解できるのではないでしょうか。すなわち、われらが往生を「願う」ということが、取りも直さずわれらの往生が「願われている」ことであるということです。こう言う方が分かりやすいかもしれません、われらが往生を「願う」とき、われらの往生が「願われている」ことに気づく、と。「願われている」から「願う」ことができるのです。
 「願う」がそのまま「願われている」であるということは、他ならぬ第18願にはっきり示されています。「若不生者、不取正覚(もし生まれずば、正覚をとらじ)」とは、衆生が往生できてはじめて法蔵の正覚があるということですから、われらの往生は、われらが「願う」より前に法蔵から「願われている」わけです。われらが「願う」ことと、われらが「願われる」ことはひとつであり、それは、われらが往生を「願う」とき、われらの往生が「願われている」ことに気づくということであるとともに、われらの往生が「願われている」ことに気づいて、はじめてわれらは往生を「願う」ということです。
 話を礼拝に戻します。
 親鸞真筆の六字名号が残っていますが、掛け軸に大きく雄渾な字で南無阿弥陀仏と書かれ、上下の余白に経文が記されています(西本願寺蔵の国宝)。当時はおそらく各地の道場にこのような掛け軸が掲げられ、念仏衆の礼拝の対象になっていたのだと思われます。後に蓮如が「木像より絵像、絵像より名号」ということばを残しますが、名号を本尊とする伝統が連綿と続いていたのでしょう。このように南無阿弥陀仏を本尊として礼拝するというかたちには、「礼拝する」われらと「礼拝される」阿弥陀仏との二元的構図を避けようとする姿勢が感じられます。
 名号を本尊とすることは、「礼拝する」こと(南無)と「礼拝される」阿弥陀仏がその中に一体化された「南無阿弥陀仏」ということばを礼拝することになり、われらと阿弥陀仏が二元化されにくい構造になっているのです。

タグ:親鸞を読む
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