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念仏の不思議な力 [『教行信証』精読2(その64)]

(11)念仏の不思議な力

 親鸞は『往生要集』の中から、念仏の不思議な功徳を巧みな譬えで表現しているところをピックアップしています。南無阿弥陀仏と称えるだけで世界が一変してしまうということを言おうとしますと、譬えに頼らざるをえないのです。「わたしのいのち」が「わたしのいのち」のままで「ほとけのいのち」であることの不思議さは譬えとして言う以外に表現しようがないということです。
 さて、ここに上げられている譬えから考えたいのは、不思議な力を発揮するそのもとは何かということです。
 波利質多樹の華が衣を芳しい香りに染めあげるのは、その華の香気を衣にうつすからです。その意味では波利質多樹の華の香りを衣に薫じることが素晴らしい結果をもたらすと言うことができます。しかし、衣を芳しい香りに染めあげることができるのは、言うまでもなく、そもそも波利質多樹の華に芳しい香りがあるからです。あるいは、わずかの石汁が大量の銅を金に変えることができるのは、銅を石汁の中に浸すからに違いありませんが、しかし銅が金に変わるのは、石汁そのものにそのような力があるということです。それ以外の譬えでも同じです。
 何を言いたいか、もうお分かりでしょう。「わたしのいのち」がそのままで「ほとけのいのち」となるのは南無阿弥陀仏を称える(念仏する)からに違いありません。しかし、南無阿弥陀仏と称える(念仏する)ことでそのような不思議な結果が生まれるのは、南無弥陀仏そのものにそのような力がそなわっているからです。南無阿弥陀仏とは言ってみれば、宇宙からやってくるかすかな暗号ですが、それにはこころも及ばない不思議な力がそなわっていて、それを傍受し、それにこだますることで世界が一変するのです。ただしかし、傍受し、それにこだますることができませんと、世界に何の変化も起こりません。
 ヒマラヤに生える忍辱という草は、牛乳をたちまちに醍醐に変えるという不可思議な力がありますが、でも牛がその草を食べませんと、何ごとも起こりません。

タグ:親鸞を読む
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