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『教行信証』精読2(その65) ブログトップ

本文4 [『教行信証』精読2(その65)]

(12)本文4

 さて七高僧の最後、源空(法然)の登場です。『選択本願念仏集』から二つの文が引用されます。

 『選択本願念仏集』(源空の集)にいはく、「南無阿弥陀仏。往生の業には念仏を本とす」と。
 またいはく、「それすみやかに生死を離れんと欲(おも)はば、二種の勝法のなかに、しばらく聖道門を閣(さしお)きて、選んで浄土門に入れ。浄土門に入らんと欲はば、正雑二行(しょうぞうにぎょう、読誦・観察・礼拝・称名・讃嘆供養が正行、その他のさまざまな行が雑行)のなかに、しばらくもろもろの雑行を抛(なげう)ちて、選んで正行に帰すべし。正行を修せんと欲はば、正助二業(正行のうち、称名が正定業、その他の四つが助業)のなかに、なほ助業を傍らにして、選んで正定をもつぱらにすべし。正定の業とはすなはちこれ仏の名(みな)を称するなり。称名はかならず生ずることを得。仏の本願によるがゆゑに」と。以上

 (現代語訳) 源空聖人の『選択本願念仏集』の冒頭にこうあります、「南無阿弥陀仏。往生の業としては念仏が本である」と。
 またその末尾にこうあります、「すみやかに生死の迷いからはなれようと思うならば、二種類の法門のなかで、聖道門をさしおき、選んで浄土門に入るべきです。そして浄土門に入ろうと思うならば、正行と雑行の二行のなかで、さまざまな雑行をなげうち、選んで正行を行うべきです。さらに正行を行おうと思うならば、正定業と助業の二業のなかで、助業はかたわらにおいて、選んで正定業をもっぱら行うべきです。正定業とは、すなわち弥陀の名号を称えることです。名号を称えれば、かならず往生することができます。それが弥陀仏の本願ですから。

 『選択本願念仏集』からは冒頭の一文と末尾の短文だけで(『教行信証』全体としてもそれだけです)、親鸞にとってかけがえのない「よきひと」、念仏の道へと導いてくれた大恩人の書物から引くにしては素っ気ない感じがします。しかしこの二文を読みますと、もうこれだけで十分と思えるずっしりとした重みがあります。『選択集』のすべてが、そして法然浄土教のすべてがこのなかにおさまっています。

タグ:親鸞を読む
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