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選択ということ [『教行信証』精読2(その66)]

(13)選択ということ

 『選択本願念仏集』は16章からなっていますが、その第1章「道綽禅師、聖道・浄土の二門を立てて、しかも聖道を捨てて正しく浄土に帰するの文」(章のタイトルがその要約になっています)がはじまる前に、「南無阿弥陀仏、往生の業には念仏を本(先)とす」という文がおかれています。そして最後の第16章「釈迦如来、弥陀の名号をもつて慇懃(おんごん)に舎利弗等に付属したまふの文」のなかに、「それすみやかに生死をはなれんとおもはば云々」の文があります。この最初と最後の二文で『選択本願念仏集』がみごとに集約されています。
 この書物は、タイトルに「選択」とある如く、往生の行として他のあらゆる行を選びすて、ただ念仏だけを選びとることを明らかにするものです。全編を通してそのことが述べられているのですが、それをたったの六行に約めたものが「それすみやかに生死をはなれんとおもはば」の文であることから、これは「略選択」とよばれます。第一に「しばらく聖道門をさしおきて、えらんで浄土門にいれ」、第二が「しばらくもろもろの雑行をなげすてて、えらんで正行に帰すべし」、第三が「なを助業をかたはらにして、えらんで正定をもはらにすべし」と選択が三段階となっていることから「三選の文」ともよばれます。
 それにしてもこの文章は「しばらく、さしおきて」、「えらんで、いれ」、また、「しばらく、なげすてて」、「えらんで、帰すべし」というように、「選びすて、選びとり」が小気味よく繰り返され、選択の容赦なさが鮮やかに印象づけられますが、ここで考えたいと思いますのは、この「選びすて、選びとり」をするのは誰かということです。何を寝ぼけたことを言っているのか、「それすみやかに生死をはなれんとおもはば」念仏ひとつを選びとるべし、と言っているのだから、それをするのは往生を願うわれらに決まっているじゃないか、と切り返されることでしょう。
 たしかにこの文章は源空が往生の業として他を選びすて念仏だけを選びとるようみんなに勧めているのですから、「選びすて、選びとり」をするのは勧める源空であり、そしてまた勧められるわれらです。このように、「選ぶ」のはわれら衆生であるのは明らかであり、そうでないとすればいったい誰が選ぶのかと言わなければなりません。さてしかし「以上、おわり」でいいのでしょうか。

タグ:親鸞を読む
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