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われらが選ぶとは言っても [『教行信証』精読2(その67)]

(14)われらが選ぶとは言っても

 「選ぶ」ということですが、なるほどぼくらは朝起きてから夜寝るまで、いつも何かを選んでいます。生きるとは選ぶということです。
 一番はっきりするのが車の運転で、次から次へと選ばなければならないことが起こってきます。次の交差点では直進でいいのか、それとも右折するのか、ここでは右の車線をとるのがいいか、左の車線の方がいいのかなど、のべつ幕なしに選択がつきつけられます。しかし考えてみますと、それらの選択はその時々に白紙の状態からなされているのではなく、それに先立つ目的に規定されています。次の交差点で右折を選択するのは、めざす場所へ行くのにそれが近道であるからというように、ある選択はそれに先立つ選択から導かれていることが分かります。
 道を歩いている人に尋ねてみましょう、「あなたはどうしてこの道を歩いているのですか?」と。こんな答えが返ってきます、「駅に向かっているのですが」。以下、二人のやりとりです。
 「どうして駅に?」
 「そりゃ電車に乗るためですよ」
 「どうして電車に?」
 「職場に行くためです」
 「どうして職場に?」
 「どうしてって…、仕事をするためですよ」
 「どうして仕事を?」
 このあたりから険悪なムードが漂い始め、「いいかげんにしろよ、仕事をしなきゃ、食っていけないだろ」と怒り出すことでしょう。
 この会話をふりかえってみますと、この道を歩くという選択は、駅に行くという選択に規定され、駅に行くという選択は電車に乗るという選択に規定されるというように、それぞれの選択は前もって規定されていて、それらはいわば無意識裡になされていることが分かります。それぞれの行為をそのつど選んでいるには違いないのですが、実のところもうすでに選ばれているのです。そう言えば、この頃、高齢者ドライバーがブレーキとアクセルを踏み間違えて事故を起こすことが多いですが、ブレーキを踏むか、アクセルを踏むかは意識的に選択しているのではなく、身体が自動的に反応しています。そのつど選んでいるには違いないのですが、実は選ばれているのです。アクセルとブレーキを踏み間違えるということは、その自律的な選択に狂いが生じたということです。

タグ:親鸞を読む
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