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『教行信証』精読2(その70) ブログトップ

本文1 [『教行信証』精読2(その70)]

             第5回 不回向の行―自釈1

(1)本文1

 行巻のこれまでの歩みを振り返っておきますと、はじめに行とは何かについて、「大行といふは、すなはち無碍光如来のみなを称するなり。この行はすなはちこれもろもろの善法を摂し、もろもろの徳本を具せり」と述べられ、それがまず経典において確かめられます。そして次にインド・中国・日本の高僧たちの要文を引きながら、念仏が大行である所以を明らかにしてきたのでした。そのボリュームはかなりのものでしたが、それが一応終わり、これまでを総括することばが出てきます。

 あきらかに知んぬ、これ凡聖(ぼんしょう、凡夫と聖者)自力の行にあらず。ゆゑに不回向の行(如来より回向されるものであり、われらが回向するのではないということ)と名づくるなり。大小(大乗と小乗)の聖人、重軽(じゅうきょう)の悪人、みな同じく斉しく選択の大宝海(本願名号の功徳の海)に帰して念仏成仏すべし。ここをもつて『論の註』にいはく、「かの安楽国土は、阿弥陀如来の正覚浄華の化生(四生-胎生・卵生・湿生・化生-のひとつ。浄土に忽然と生まれること)するところにあらざることなし。同一に念仏して別の道なきがゆゑに」とのたまへり。以上

 (現代語訳) 以上のことから明らかです。念仏といいますのは、凡夫や聖者が自力でなす行ではありません。だからこそ不回向の行と名づけられます。大乗・小乗の聖者も、重・軽の悪人も、みな同じように本願名号の海に帰入して、念仏成仏するのです。『論註』にはこう言われます、浄土へはみな同じように蓮華の上に忽然と生まれるのであり、それはみな同じように念仏して生まれるのであって別の道によるのではないからです。

 念仏の行を総括して二つのことが述べられています。ひとつに念仏は自力の行ではなく、不回向の行であるということ。ふたつは聖人であれ悪人であれ、みな念仏により成仏するのであり、それ以外に道はないということ、この二つです。

タグ:親鸞を読む
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