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不回向の行 [『教行信証』精読2(その71)]

(2)不回向の行

 一つ目の「念仏は不回向の行である」ということについて。まず「回向」の意味を確認しておきますと、サンスクリットの「パリナーマ」の訳で、己の修めた善を他に回らし向けることを言います。他に回らすというとき、「自己の救い」に回らすのと「他者の救い」に回らすのとがありますが、大乗の菩薩思想において、自利(自己の救い)はおのずから利他(他者の救い)とならねばならず、利他ではない自利はありえません。「われ人ともに救われん」とするところに大乗仏教のエッセンスがありますから、己の善を自他の救いに回らし向けることが回向ということになります。
 ところが念仏は不回向の行であるというのです。われらが回向するのではなく、如来から回向されるということですが、これはどういうことか。
 まず注目したいのは、念仏と名号は区別せずにつかわれることがしばしばあり、念仏と言うべきところを名号と言われるということです。たとえば「真実の信心はかならず名号を具す。名号はかならずしも願力の信心を具せず」(「信巻」)ということばがそうで、この場合、厳密には念仏と言わなければならないところを名号と言っています。念仏とは名号を称えることですから、念仏と名号は明らかに別の概念ですが、こんなふうに区別なくつかわれてもさほど違和感がなく、すっと頭に入ります。
 ここには大事な秘密が隠されています。
 前に、念仏を「選ぶ」ことについて、われらが「選ぶ」ことと如来に「選ばれる」ことがひとつであるということに注目しました。われらが念仏を選んでいるには違いありませんが、実はその前に念仏は如来によって選ばれているということです。念仏と名号が区別なくつかわれるということにも同じ消息があります。念仏は「称える」ことであり、名号は「称えられる」ものですが、「称える」ことと「称えられる」ものがひとつとして区別できないということです。

タグ:親鸞を読む
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