SSブログ
『教行信証』精読2(その72) ブログトップ

こだま [『教行信証』精読2(その72)]

(3)こだま

 もうひとつ確認しておきたいのは、弥陀の四十八願のなかに、念仏にあたる語は第18願に「乃至十念」とあるのみで他には見当たらないのに(第17願の「わが名を称する」は諸仏について言われていますから除外します)、名号にあたる語は第20願の「わが名号を聞きて」をはじめ、おびただしい数に上るということです。そして名号にあたる語には、この例にもありますように、そのあとにかならず「聞きて」ということばが続くということ、ここには重要なメッセージが潜んでいます。
 名号は何よりも「聞く」ものであり、しかる後に「称える」のであるということです。第18願の「乃至十念」も、その前に「至心信楽」とあり、信楽とは名号を聞くことに他なりません。親鸞はしばしば「聞くことが信ずることである」と述べますが、本願名号が聞こえてくることが取りも直さずそれを信じることです。まず名号を聞いて(信じて)、その後に称えるのです。南無阿弥陀仏はむこうから聞こえてくるものであるということ、そしてそれにこだまするようにわれらが称えるということです。
 むこうから聞こえてくるということが「如来からの回向」を意味し、われらはそれにこだまするだけということが「われらにとっての不回向」を意味します。こだまというものは、ただ反射するだけで、むこうからやってくる声に何ひとつ加えるわけではありません。われらの念仏も名号に何ひとつつけ加えません。「帰っておいで」という嬉しいたよりに、そのまま「はい、ただいま」とこだまするのが念仏ですから、これはやはり不回向の行と言わなければなりません。
 さてふたつめです。どんな聖人であれ、どんな悪人であれ、この不回向の行によってしか救われないということ、これ以外に道はないということです。
 この言い回しにはどこか不自然なところがあると感じられないでしょうか。「どんな悪人も、この行によってだけ救われる」というのなら、なるほどそういうこともあろうかと頷くことができますが、「どんな聖人も、この行でだけ救われる」と言われますと、「うん?何か変だな」という気持ちが動きます。「どんな聖人も」と「救われる」とがうまく接合しないのです。

タグ:親鸞を読む
nice!(0)  コメント(0) 
共通テーマ:学問
『教行信証』精読2(その72) ブログトップ