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悪の海抜ゼロメートル地点 [『教行信証』精読2(その74)]

(5)悪の海抜ゼロメートル地点

 われらはみな一様に悪人である、これが親鸞の出発点です。われらはみな悪の海抜ゼロメートル地点にいるということ。ただそれに気づいている人と気づいていない人がいて、親鸞は前者を悪人といい、後者を善人と言っているのです。さて、われらはみな悪人であるというのはどういうことかと言いますと、みな例外なく無明のなかにあるということであり、あるいは我執のなかにあると言っても同じです。「われ」に囚われ、「わがもの」に囚われているということです。
 悪と言われますと、殺し、盗みなどが頭に浮び、それと無明や我執とはただちには結びつかないかもしれません(仏教で悪といえば、殺生・偸盗・邪婬・妄語・両舌・悪口・綺語・貪欲・瞋恚・愚痴の十悪です)。そこから、みな一様に悪人であると言われると「ちょっと待ってよ」と不満顔になるのですが、十悪のなかに貪欲・瞋恚・愚痴が入っているように、悪と煩悩とは地続きであり、そして煩悩の根源には無明や我執があります。わたしは殺しや盗みとは無縁ですという人も、たまたまそうした宿縁がないだけのことで、「わがこころのよくてころさぬにはあらず。また害せじとおもふとも、百人千人をころすこともあるべし」(『歎異抄』第13章)と言わなければなりません。
 さて、われらはみな無明のなかにあるということは、みずからの力で自覚することができません。無明とは闇の中に閉ざされ真実が見えないということですが、生まれてこのかたずっと闇の中にいるものは、自分が闇の中にいることを知ることができません。深海に生まれ深海で死ぬ魚は、そこが闇であることを知る由もありません。光に遇うことではじめて「ああ、闇の中にいたのか」と気づくことができるのですが、無明に気づかせてくれる光とは弥陀の本願の光に他なりませんから、無明の気づきと本願の気づきはひとつであることになります。
 本願に気づいてはじめて無明に気づくのであり、無明すなわち悪に気づくことが本願に気づくことに他なりません。かくして己が悪人であることに気づいている悪人が本願の正機であることがすっきり了解できます。

タグ:親鸞を読む
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