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『教行信証』精読2(その75) ブログトップ

本文2 [『教行信証』精読2(その75)]

(6)本文2

 本文1のつづきです。

 しかれば、真実の行信を獲れば、心に歓喜おほきがゆゑに、これを歓喜地(初地のこと。菩薩道52階位のうち、第41階位。不退の位)と名づく。これを初果(小乗の声聞が得る四果の第一。預流果といい、四諦をえて見惑を断じた境地)に喩ふることは、初果の聖者、なほ睡眠(すいめん)し懶惰(らんだ)なれども二十九有に至らず(二十八回までは人天に転生することはあるが、それ以上は苦界に戻ることはない、という意味)。いかにいはんや十方群生海、この行信に帰入すれば摂取して捨てたまはず。ゆゑに阿弥陀仏と名づけたてまつると。これを他力といふ。ここをもつて龍樹大士は「即時入必定」といへり。曇鸞大師は「入正定聚之数(にゅうしょうじょうじゅしじゅ)」といへり。仰いでこれを憑むべし、もつぱらこれを行ずべきなり。

 (現代語訳) このように真実の信心・念仏の人になれば、こころは歓喜に溢れますから、この境地を初地、すなわち歓喜地というのです。これは小乗の初果、すなわち預流果にたとえられますが、初果に至れば、もうどれほど眠りこけようと、怠けようと、二十九生にはかならず成仏できるからです。ましてや本願の行信に入ることができれば、漏れることなく摂取され捨てられることはありません。だからこそ阿弥陀仏というのです。これが他力ということです。このことを龍樹大士は念仏の人は「直ちに不退の位に入る」と言われ、曇鸞大師は「正定聚のなかに入る」と言われるのです。仰いでこの行信をたのむべきです、もっぱらこの行信によるべきです。

 ここには行信をえたときの喜びが横溢しています。もうこれさえあれば、あとは何もいらないという嬉しさで一杯です。

タグ:親鸞を読む
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