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両重因縁 [『教行信証』精読2(その80)]

(11)両重因縁

 名号と光明により往生させてもらうが、ただそこには信心が必要だと素直に理解すればいいと思うのですが、この段については昔からやかましい議論があり、第一重と第二重の関係をどうとらえるかを巡って争われてきました。ひとつの説は、第一重の因縁による果は信心であるとし、そして第二重の因縁により往生という果が生じるとします。もうひとつの説は、第一重の因縁も第二重の因縁も果は同じく往生であり、第二重の因縁はすでに第一重の因縁のなかに潜在的にあったものを顕在化させたものであると主張します。いずれの説にもそれなりの言い分はありますが、所詮この論争は徒労であると言わざるをえません。
 こうした無益な論争が生まれてくる根っ子は、光明名号と信心と往生の三者をいわゆる原因と結果の関係でとらえようとしているところにあると思われます。光明名号という因縁で信心という果が生じると見るにせよ、あるいは往生という果が生じると見るにせよ、光明名号という因縁と信心あるいは往生という果を時間的な原因・結果としてとらえているのではないでしょうか。まず光明名号という原因があり、それが信心なり往生なりという結果を生みだしているというように、時間のなかで実際に何らかの変化が起こっていると見ているのです。
 しかし仏教の因果概念は元来このような原因・結果という時間的な概念ではありません。釈迦が「これあるに縁りてかれあり」と言うとき、「これ」が原因となって「かれ」という結果を生みだしているということではなく、「これ」は「かれ」とのつながりを離れては存在しないと言っているのです。「これあるに縁りてかれあり」は同時に「かれあるに縁りてこれあり」ということでもあり、「これ」と「かれ」は時間的に結びついているのではなく、存在として繋がりあっているということです。存在としての縁起の繋がりと時間的な原因・結果の繋がりははっきり区別しなければなりません。
 光明名号と信心と往生とは時間的な原因・結果の関係で繋がっているのではなく、存在論的な縁起の関係で繋がっているのです。

タグ:親鸞を読む
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