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信心正因とは [『教行信証』精読2(その81)]

(12)信心正因とは

 としますと親鸞がこの両重因縁を説くのはどういう意味があるのでしょう。やはり問題の焦点は信心にあります。
 光明名号に縁って往生が得られるとしますと、そして光明名号は十方世界の隅々まで行きわたり、すべての衆生に注がれているとしますと、もう例外なくみんなが往生を得ることができるはずです。しかし現実はどうか。一方に往生を得て救われている人がいる反面、往生を得ているとは思えない人がいますが、これをどう理解すればいいか。ここに信心の出番があります。第二重の因縁で、光明名号の外縁がそろっていても、そこに信心の内因がなければ往生できないと言われるのはそのことです。
 ただ、信心が往生の因であるというとき、またしても信心が原因となって往生という結果を生みだすとしてしまいますと、同じ過ちを繰り返すことになります。信心と往生は原因・結果という時間的関係ではありません。信心することが、取りも直さず往生することです。繰り返しを厭わず言いますと、信心とは光明名号に気づくことに他なりません。宇宙からの信号(たより)を傍受することです。それだけですが、それが何ものにも代えられない救いとなるのです。逆に、この気づきがありませんと、光明名号なんてどこにもなく、したがって往生という救いもありません。
 これが信心正因ということです。
 信心が往生の因ということを、信心のときに往生がはじまると言い換えても間違いではありませんが(現に、信心がなければ往生という救いはどこにもないのですから)、より厳密に言いますと、信心のときに、すでに往生がはじまっていることに気づくのです。往生はもうとうのむかしにはじまっているのですが、これまでそのことに気づかなかっただけです。信心が光明名号の気づきであるように、往生も「わたしのいのち」が「わたしのいのち」のままで「ほとけのいのち」であることの気づきに他なりません。「わたしのいのち」はそのままでとうのむかしから「ほとけのいのち」ですが、これまでそのことに気づかなかった。それに気づくのが往生です。
 信心という気づきは往生という気づきと別ではありません。

タグ:親鸞を読む
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