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一念か多念か [『教行信証』精読2(その83)]

(14)一念か多念か

 ここで述べられるのは「称名の徧数」についてです。一見、些末なことに思われますが、実際は信心と念仏についての本質的な問題に関わり、現に、法然門下において一念義と多念義の対立がありました(一念義は幸西と行空ら、多念義は隆寛らに代表されます)。一念義は、往生は信心により決まるのだから、信の一念とそれに伴う行の一念で十分であるとするのに対して、多念義は、一生のあいだ念仏をつづけることが大事であり、そうしてはじめて臨終の来迎に与ることができるとします。この対立は結局のところ信心か念仏かということに行きつくと言えます。
 信心と念仏、信と行の問題はこれまでも取り上げてきましたが(7を参照)、『大経』自身がその関係をこの上なく明らかに説き明かしてくれています。ここに引用されている弥勒付属文に「かの仏の名号をきくことをえて、歓喜踊躍して乃至一念せん」とあるのがそれです。「かの仏の名号をきくこと」が信で、「乃至一念せん」が行ですが、両者を歓喜踊躍が繋いでいます。弥陀の名号が聞こえておのずから歓喜踊躍し、そしてその歓喜踊躍からおのずと弥陀の名号を称えることになります。かくして聞名と称名はひとつに繋がります。信と行はもう切り離すことができません。信だけがあって行がないことはなく、行だけで信がないこともありません。
 ここから一念義と多念義の問題点が浮かび上がってきます。まず一念義から見ていきましょう。
 一念義は、往生は信の一念によりさだまるから、行も一念で十分であるとするのですが、これは信をある瞬間において受け取っています。ちょっと先回りになりますが(これは「信巻」の課題です)、信の一念について簡単に見ておきますと、親鸞はこう言います、「それ真実信楽を案ずるに、信楽に一念あり。一念といふは、これ信楽開発の時剋の極促をあらはし、広大難思の慶心をあらはす」。このことばは弥陀の名号が聞こえた瞬間(宇宙からの信号を傍受した瞬間)をみごとにとらえています(信の一念にはもうひとつの意味があり、「ふたごころなく本願を信じる」ということですが、いまはおきます)。信は一瞬にして成立するのです。

タグ:親鸞を読む
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