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点と線 [『教行信証』精読2(その84)]

(15)点と線

 信楽が開発するのはまさに「時剋の極促」です。しかし忘れてならないのは、それは開発の瞬間のことであり、信楽はそれで終わるわけではないということです。
 信楽は線香花火のように、一瞬チカッと光って、それで消えてしまうものではありません。信楽がはじまるのはまさしく「時剋の極促」ですが、信楽はそれからずっと続くのです。親鸞がその「時剋の極促」に注目するのは、それによってこれまでの人生が終わり、新しい人生がはじまるからであり、その断絶が際だっているからです。「前念命終、後念即生(前念に命終して、後念にすなはち生まる)」です(善導はこれを臨終のこととして説いていますが、親鸞にとっては信楽開発の瞬間のことです)。
 信楽が開発されるのは瞬間ですが、そこから信楽の生活がはじまります。正定聚不退の生活です。われらはどうしても決定的な「点」に目を奪われてしまいがちですが、大事なのはその点につづく「線」です。外見上は決定的な点の前と同じ線がつづいていて、悪人が聖人になるわけでも、穢土が一気に浄土に変貌するわけでもありません。「煩悩を具足せる凡夫」として「三界に流転して火宅をいでず」です。ただしかし、こころの中には信楽の熾火があります。
 それは「信楽開発の時剋の極促」におけるように、燃え立つような火ではありませんが、静かにこころを温めつづけてくれます。それをつい忘れることはあっても(つまらないことに腹を立てているとき、信楽の熾火は忘れられています)、すぐまた本願名号に戻ってきて、そしてそのときおのずから南無阿弥陀仏が口をついて出てくるでしょう。かくして自然と多念になります。たしかに往生は信の一念にさだまりますから、行もまた一念で十分と言ってもいいでしょうが、そうは言っても、信が持続する以上、行もまた多念となる必然性があるのです。
 さてでは多念義はどうか。これにはしかし多言を要しません。多念義は、往生するためには念仏を「しなければならない」と説きますが、念仏は「ねばならない」ものではありません、おのずから口をついて出てくるものです。この一点で多念義の念仏は自力の念仏であると言わなければなりません。

タグ:親鸞を読む
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