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『教行信証』精読2(その85) ブログトップ

本文5 [『教行信証』精読2(その85)]

(16)本文5

 つづいて、本文4で引用された経文や善導のことばについて注釈が施されます。

 『経』に「乃至」といひ、釈には「下至」といへり。乃下その言(ことば)異なりといへども、その意(こころ)これ一つなり。また乃至とは一多包容のことばなり。「大利」といふは小利に対せるの言なり。「無上」といふは有上に対せる言なり。まことに知んぬ、大利無上は一乗真実の利益なり。小利有上はすなはちこれ八万四千の仮門なり。釈に「専心」といへるはすなはち一心なり、二心なきことをあらはすなり。「専念」といへるはすなはち一行なり。二行なきことをあらはすなり。いま弥勒付属の「一念」は、すなはちこれ一声なり。一声すなはちこれ一念なり。一念すなはちこれ一行なり。一行すなはちこれ正行なり。正行すなはちこれ正業なり。正業すなはちこれ正念なり。正念すなはちこれ念仏なり。すなはちこれ南無阿弥陀仏なり。
 しかれば、大悲の願船に乗じて光明の広海に浮びぬれば、至徳の風静かに、衆禍の波転ず。すなはち無明の闇を破し、すみやかに無量光明土に到りて大般涅槃を証す。普賢の徳にしたがふなり。知るべし。

 (現代語訳) 『大経』では乃至一念あるいは乃至十念と言われ、善導の釈では下至一念とか下至十声と言われて、乃至と下至とことばは異なりますが同じことを言っています。乃至とは一と多を合わせ含むことばです。弥勒付属文に一念する人は大利をえ、無上の功徳を具足すると言われていますが、この大利とは小利に対することばで、無上は有上に対します。そして大利無上は本願一乗の真実の利益で、小利有上はその他の八万四千の仮の法門のことです。また善導の釈で専心と言われているのは、一心のことで二心のないことを意味します。一方、専念と言われるのは一行で二行ないことを意味します。弥勒付属文に一念とありますのは一声のことで、一声がすなわち一念であり、一行のことです。一行とは正行であり、正行は正定の業で、正定の業は正念です。正念とは念仏であり、すなわち南無阿弥陀仏です。
 このように大悲の願船に乗らせていただき光に照らされた広海にうかんでみますと、功徳の風が静かに帆をすすめ、禍の波も転じていまや穏やかです。もう無明の闇に脅かされることもなく、すみやかに光明の浄土にいたり、涅槃をえて衆生済度のはたらきをさせていただけます。

タグ:親鸞を読む
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