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『教行信証』精読2(その88) ブログトップ

本文1 [『教行信証』精読2(その88)]

        第6回 他力といふは、如来の本願力なり

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 これまでのところで行巻は締めくくられたはずですが、ここであらためて他力について述べられます。

 他力といふは、如来の本願力なり。
 『論』(曇鸞の『浄土論註』)にいはく、「本願力といふは、大菩薩(八地以上の菩薩)、法身(ほっしん)のなかにして、つねに三昧(ざんまい)にましまして、種々の身、種々の神通、種々の説法を現じたまふことを示す。みな本願力より起るをもつてなり。たとへば阿修羅の琴の鼓するものなしといへども、しかも音曲自然(おんぎょくじねん)なるがごとし。これを教化地(きょうけじ)の第五の功徳相(五功徳門のうち、最後の衆生を教化する園林遊戯地門のこと)となづく。乃至 

 (現代語訳) 他力といいますのは、阿弥陀仏の本願力のことです。
 『論註』にこうあります。本願力といいますのは、大菩薩が深い悟りと禅定のなかにあって、さまざまな身を現し、さまざまな神通力をもち、さまざまに説法をすることができるのも、みな本願の力によるということです。それは阿修羅の琴はそれを奏するものがいなくても自然と音曲を奏でるようなものです。これは衆生を教化する第五の功徳の相と名づけられます。

 親鸞は先の総括のなかで「この行信に帰命すれば、摂取してすてたまはず。かるがゆへに阿弥陀仏となづけたてまつる。これを他力といふ」と述べていましたが、この他力ということについて、より丁寧に述べる必要を感じたに違いありません。そこであらためて他力とは何かを明らかにするのですが、親鸞のことばとしてはただ一言、「他力といふは、如来の本願力なり」とあるだけで、あとはすべて『論註』に語らせます。

タグ:親鸞を読む
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