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自利と利他 [『教行信証』精読2(その91)]

(4)自利と利他

 まず「自利にあたはずしてよく利他するにはあらざるなり」ということですが、これを自分が救われてはじめて他者(ひと)を救うことができると理解すべきではないでしょう。そうしますと、自分の救いと他者の救いとの間に時間的なズレが生まれることになり、自分が救われるまでは他者のために何もできないとなってしまいます。そうではなく、自分の救いを求めないと他者の救いを求めることもないというように受けとめるべきです。自分の救いを求めてはじめてほんとうに他者の救いを求めるようになるということです。
 自分の救いをさしおいて、もっぱら他者の救いを求めることもあるじゃないかと言われるかもしれませんが、そのときイメージされているのは、たとえば、わが身を顧みずに火の中に飛び込んでわが子を助けようとする親の姿でしょう。そのような自己犠牲が事実としてあることは確かですが、それはしかし「わが身」を犠牲にして「わが子の身」を助けようとしているのであって、「わが魂」と「わが子の魂」の救いのことではありません。魂の救いについていえば、「わが魂」の救いを求めないと「わが子の魂」の救いを求めることもないと言わなければなりません。
 次に「利他にあたはずしてよく自利するにはあらず」について。これも同様に、他者の救いを求めないと自分の救いを求めることもないと受けとめるべきです。「利他によるがゆへにすなはちよく自利す」であり、他者の救いを求めてはじめてほんとうに自分の救いを求めることになるのです。これにも疑問が呈されるかもしれません、他者の救いなんてそっちのけで自分の救いだけ求めることもあるじゃないか、と。確かに深い悩みに閉ざされたようなとき、もう周りは見えなくなり、ただひたすら自分の救いだけを求めるかもしれません。でも、その救いがまがいものでないとすれば、自分だけの救いなどありえないことはそのうち気づきます。すぐ隣にいる人が救われていないのに、自分は救われているなどということがどうしてあるでしょう。
 かくして自利があってはじめて利他があり、また利他があってはじめて自利があると言わなければなりません。

タグ:親鸞を読む
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