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『教行信証』精読2(その92) ブログトップ

本文3 [『教行信証』精読2(その92)]

(5)本文3

 さらに『論註』からの引用がつづきます。

 菩薩はかくのごとき五門の行を修して、自利利他して、速やかに阿耨多羅三藐三菩提(あのくたらさんみゃくさんぼだい、仏の悟り)を成就することを得たまへるがゆゑにと。仏の所得の法を、名づけて阿耨多羅三藐三菩提とす。この菩提を得たまへるをもつてのゆゑに、名づけて仏とす。いま速得阿耨多羅三藐三菩提といへるは、これはやく仏になることを得たまへるなり。阿をば無に名づく、耨多羅をば上に名づく、三藐をば正に名づく、三をば遍に名づく、菩提をば道に名づく。統(か)ねてこれを訳して、名づけて無上正遍道とす。無上は、いふこころは、この道、理を窮(きわ)め、性(しょう)を尽くすこと、さらに過ぎたるひとなけん。なにをもつてかこれをいはば、正(しょう)をもつてのゆゑに。正は聖智なり。法相のごとくして知るがゆゑに、称して正智とす。法性は相なきゆゑに聖智は無知なり。遍に二種あり。一つには聖心(しょうしん)、あまねく一切の法を知ろしめす。二つには法身、あまねく法界に満てり。もしは身、もしは心、遍せざることなきなり。道は無碍道なり。『経』(華厳経)にいはく、十方の無碍人、一道より生死を出でたまへりと。一道は一無碍道なり。無碍は、いはく、生死すなはちこれ涅槃なりと知るなり。かくのごときらの入不二の法門(諸法不二をさとる法門)は無碍の相なり。

 (現代語訳) 菩薩はこのように五念門を修め、自利と利他のはたらきを成就して速やかに阿耨多羅三藐三菩提に至ることができます。仏の得る悟りを阿耨多羅三藐三菩提と言います。この菩提をえられますから仏と言うのです。いま速やかに阿耨多羅三藐三菩提を得ると言われますのは、はやく仏になることができるということです。阿耨多羅三藐三菩提の阿は無であり、耨多羅は上、三藐は正、三は徧で、菩提は道ですから、あわせて無上正徧道となります。「無上」といいますのは、ものごとのことわりと本質を極めつくしていて、これ以上のものはないからです。と言いますのも、それは「正」であるからで、正とは仏の悟りの智慧を言い、ものごとのありのままを悟りますから、これを正智といいます。ものごとのありのままはこれといって定まった相はありませんから、悟りの智慧はこれといって何を知るでもなく、したがって無知と言うこともできます。「徧」には二つの意味があり、一つは、仏の心はあまねく一切のことを知るということで、もう一つは、仏の身はいたるところに満ち満ちているということです。仏の身も心もいたらないところはありません。「道」とは何ものにも妨げられることのない無碍道のことです。『華厳経』に「無碍の人である仏はみなひとつの道から生死の迷いを出られた」とありますが、このひとつの道が無碍道です。無碍とは、生死はそのままで涅槃であると悟ることであり、このように何ものにも囚われることのない境地に入るのが無碍の相です。

タグ:親鸞を読む
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