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無碍の道 [『教行信証』精読2(その93)]

(6)無碍の道

 ここで曇鸞は、『浄土論』に「菩薩は五念門を歩むことにより速やかに阿耨多羅三藐三菩提を得る」と述べられていることについて、まず阿耨多羅三藐三菩提の意味を解説しています。阿耨多羅三藐三菩提はサンスクリットの音訳ですから、それぞれの文字に意味があるわけではなく、意訳としては「無上正等覚」とか「無上正真道」と訳され、要するに仏の無上の悟りのことです。それを曇鸞は「無上正徧道」として、それを「無上」と「正」と「徧」と「道」に分解し、それぞれの意味するところを明らかにしているのです。あまりに抽象的で理解するのに苦労しますが(現代語訳するのに四苦八苦します)、印象に残るのは無碍道ということばです。「道は無碍道なり」という表現から自然と頭に浮かんでくるのが『歎異抄』第7章の「念仏は(念仏者はとなっていますが、この者は『は』でしょう)無碍の一道なり」です。
 曇鸞はこの無碍道について「無碍はいはく、生死すなはちこれ涅槃なりとしるなり」と述べています。ここに龍樹の学徒たる曇鸞らしさが出ていると言うべきでしょう。
 ちょっと話が横道にそれるかもしれませんが、浄土教において聖道門と浄土門が区別されるのは当然としても、それがしばしば対立させられ、聖道門は何か不倶戴天の敵であるかのように言われることがあります。それはたとえば、いま出てきました「生死即涅槃」などということばに対する忌避の感覚にあらわれています。それは聖道門の言葉であって、われら浄土門に生きるものには縁のないものだとはねつけられることがよくあるのです。これはしかし悲しむべきセクト主義ではないでしょうか。聖道門であれ浄土門であれ、同じ仏門であるはずです。ひとつの仏門があるとき小乗と大乗に分かれ、さらに大乗が聖道と浄土に分かれるにはそれぞれの必然性があってのことであるのは言うまでもありませんが、その必然性を理解することは、もとは同じであるという認識を生みこそすれ、敵対することにはならないはずです。
 考えてみますと、これまで出てきました七高僧はみな聖道門から浄土門へと転入してきた人たちです。龍樹は中観から浄土へ、そして天親は唯識から浄土へ転入し、曇鸞・道綽・善導・源信・源空もみな聖道を学ぶなかから浄土の教えに帰入してきました。親鸞もまた例外ではありません。叡山の天台教学から源空の浄土教へと飛び込んでいったのです。

タグ:親鸞を読む
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