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『教行信証』精読2(その94) ブログトップ

本文4 [『教行信証』精読2(その94)]

(7)本文4

 そんな親鸞には聖道門を誹謗中傷するようなところは微塵も見られず、むしろ曇鸞の聖道門的な言い回しを好んで取り上げているような気配すらあります。正信偈において曇鸞を讃えるのに、限られた枠のなかで「惑染凡夫信心発、証知生死即涅槃(惑染の凡夫、信心発すれば、生死すなはち涅槃なりと証知せしむ)」と詠っていることにもそれはあらわれていると思います。
 さてしかしそれでは浄土門の意義はどこにあるのでしょう。もうすでに聖道門において生死即涅槃という仏法の真髄とも言うべき真理が説かれているならば、本願名号の教えにどんな意味があるのでしょう。その問いに答えるのが次の文です。

 問うていはく、なんの因縁ありてか速得成就阿耨多羅三藐三菩提といへるやと。答へていはく、『論』に五門の行を修して、もつて自利利他成就したまへるがゆゑにといへり。しかるに覈(まこと)にその本を求むれば、阿弥陀如来を増上縁とするなり。他利と利他と談ずるに左右(さう、右と左の違い)あり。もし仏よりしていはば、よろしく利他といふべし。衆生よりしていはば、よろしく他利といふべし。いままさに仏力を談ぜんとす、このゆゑに利他をもつてこれをいふ。まさに知るべし、この意(こころ)なり。おほよそこれかの浄土に生ずると、およびかの菩薩・人・天の起すところの諸行は、みな阿弥陀如来の本願力によるがゆゑに。なにをもつてこれをいはば、もし仏力にあらずは、四十八願すなはちこれいたづらに設けたまへらん。

 (現代語訳) さて、どういうわけで速やかに阿耨多羅三藐三菩提を得ると言われるのでしょうか。浄土論には、五念門の行を修め、自利と利他を成就されたからであると説かれていますが、その根本を求めますと、阿弥陀如来のはたらきを優れた縁としているからです。他利と利他には右手と左手のような違いがあります。仏からしますと利他と言わなければなりませんが、われら衆生からしますと他利をいうことになります。いまはまさに仏の力を問題としているのですから、利他と言わなければなりません。この違いをしっかり押さえておかなければなりません。われらが浄土へ往生することができるのも(往相です)、その上でさまざまなはたらきをすることができるのも(還相です)、みな阿弥陀如来の本願力(利他の力)によるのです。どうしてそう言えるかといいますと、もし仏の本願力によるのでなければ、四十八願が設けられたのは無意味であることになるからです。

タグ:親鸞を読む
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