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その本を求むれば [『教行信証』精読2(その95)]

(8)その本を求むれば

 この箇所が『論註』の最大のハイライトと言っていいでしょう。古来ここは「覈求其本釈(かくぐごほんしゃく)」とよばれ大事にされてきました。「覈求其本」とは「覈(まこと)にその本を求むれば」ということです。
 『浄土論』を素直に読みますと、行者が五念門の自利利他行を修めることにより、速やかに阿耨多羅三藐三菩提を得ることができるというように理解できますし、曇鸞も基本的にはその線にそって注釈をすすめていくのですが、最後の最後になってどんでん返しが待っているのです。行者が自利利他の修行をすることが因となり、阿耨多羅三藐三菩提という果を得ることができるのはその通りなのですが、「その本を求むれば」もうひとつの因が隠されていて、それが如来の本願力であるというのです。如来の本願力のはたらきがあるからこそ、五念門の行を修めることができ、五功徳門をえることができるのだと。
 この視点に立って、もういちど『浄土論』を読み返しますと、その最初のページからこれまでとはまったく異なる様相を見せるようになります。「帰命尽十方無碍光如来」の「帰命」(これが曇鸞に言わせれば礼拝門ですが)は、これまでわれらが如来をこころから礼拝することでしたが、いまや、われらが礼拝するには違いないが、「その本を求むれば」如来の本願力によってそうせしめられているということになります。また「尽十方無碍光如来」(これが讃嘆門です)はこれまでは、われらが弥陀を讃嘆することでしたが、いまや、われらが讃嘆するには違いなくとも、「その本を求むれば」やはり如来からそうせしめられているのです。
 「生死すなはちこれ涅槃なり」に戻りますと、阿耨多羅三藐三菩提とは無碍道であり、無碍道とは「生死すなはちこれ涅槃なり」と証知することでした。ですから速やかに阿耨多羅三藐三菩提を得るということは、たちまちに「生死すなはちこれ涅槃なり」と証知するということですが、どうしてそんなことが可能かと言えば、そこに如来の本願力がはたらいているからということになります。如来の本願力で「生死すなはちこれ涅槃なり」と証知することができるのだと。これまではみずからの力で「生死すなはち涅槃なり」と証知しようと努力してきたのですが(これが聖道門です)、いまや、如来の本願力によりそのように証知せしめられることが明らかになったのです(これが浄土門です)。

タグ:親鸞を読む
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