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他利と利他 [『教行信証』精読2(その96)]

(9)他利と利他

 この段の途中に突然「他利と利他と談ずるに左右あり」と出てきて、いかにも唐突という感をまぬかれません。もちろん、すぐ前のところに「五門の行を修して、もて自利利他成就したまへるがゆへに」という『浄土論』のことばがあるからであるのはその通りですが、それにしてもなぜこういう流れになるのでしょうか。曇鸞のこころの内を忖度してみますと、このことばにある「自利利他」とはわれらの行であり、われらが自らの救いと他者の救いをめざしてなすところの行ということですが、それらのすべてが「その本を求むれば」如来の本願力のしからしめるところであると言おうとしますと、われらの利他と如来の利他の違いを明らかにしなければなりません。そこで突然この「他利と利他と談ずるに左右あり」が出てきたと思われます。
 われらの利他も如来の利他も他者の救いをめざすという点では共通していますが、ちょうど右手と左手のようにそっくりだけれども置き換えることはできません。これは手袋で考えるとよく分かりますように、右の手袋と左の手袋は見分けがつかないほどそっくりですが、右の手袋を左手にはめることはできません。やはりまったく異なるのです。で、われらと如来の利他はどう違うかといいますと、われらの利他は、他者の救いをめざしているには違いありませんが、「その本を求むれば」如来の本願力回向のなせるわざであり、その意味で利他というよりも他利と言わなければなりません。われらが「他を利する」のではなく、如来という「他が利する」のであって、他である如来が衆生利益のはたらきをしているのです。ただそれがわれらの身体を通してなされているということです。
 正真正銘の利他はただ如来の利他のみであり、それが他力ということです。親鸞はこの段の冒頭に「他力といふは、如来の本願力なり」と述べていましたが、ここにきまして他力というのは、如来の利他の力であることが明らかになりました。「他を利する力」が他力であるということです。

タグ:親鸞を読む
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