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三願的証 [『教行信証』精読2(その98)]

(11)三願的証

 ここは三願的証(的とは「あきらかに」ということ)とよばれる段です。曇鸞は四十八願の中から第18願と第11願と第22願(これは次の本文6)の三つを取り上げ、往相も還相も(自利も利他も)みな本願力によることを示そうとしているのです。第18願と第11願が往相の願、そして第22願が還相の願ですが、まずは「かの浄土に生ずる」往相についてみてみましょう。曇鸞によりますと、第18願によるがゆえに「十念念仏してすなはち往生をう」ることができ、そして往生をえるということは「すなはち三界輪転の事をまぬかる」ということだから、速やかに菩提にいたることができるのです。そして次に、第11願によるがゆえに往生浄土したものは「正定聚に住」し、「かならず滅度にいたる」のであり、かくして速やかに菩提をえることができるというのです。
 この説き方から見えてくることがあります。まず、信心・念仏すれば(『浄土論』的に言いますと、五念門を修めれば)、「すなはち」往生することができ(同じく、五功徳門を成就することができ)、それは正定聚となることに他ならないということ。そして、正定聚となるということは、かならず滅度にいたることであるということ。ここから往生することと正定聚となることは同義であり、そしてそれはかならず滅度(これは菩提でもあり、悟りをひらくことでもあり、成仏することでもあります)を伴うことが分かります。さて「十念念仏してすなはち往生をう」という文言の「すなはち」ですが、滅度に「かならず」がついていることからしましても、十念念仏のときが往生のときであり、そしてのちに(いのち終わってから)滅度にいたるというように読むのが自然です。
 これはしかし浄土教におけるオーソドックスな理解とはかなりの隔たりがあると言わなければなりません。伝統的な浄土教において、往生はあくまで来生のことであり、したがって正定聚となるのも滅度をえるのも来生であるとされてきました。これは観経をベースとした往生観であり、道綽から善導へ、そしてわが日本の源信、さらに源空へと受け継がれてきたものです。しかし曇鸞は大経の第18願と第11願をベースとすることにより、往生は十念念仏のときであり、それは正定聚となることに他ならず、いつかかならず滅度にいたると理解したのです。
 親鸞はこの曇鸞の大経的往生観を受け継いでいると思われます。

タグ:親鸞を読む
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