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『教行信証』精読2(その102) ブログトップ

本文6 [『教行信証』精読2(その102)]

(15)本文6

 三願的証のつづきです。

 願(第22願)にのたまはく、たとひわれ仏を得たらんに、他方仏土のもろもろの菩薩衆、わが国に来生して、究竟(くきょう)してかならず一生補処(このたびの生が終われば仏となる等覚の位)に至らしめん。その本願の自在の所化、衆生のためのゆゑに、弘誓の鎧を被(き)て、徳本を積累(しゃくるい)し、一切を度脱して、諸仏の国に遊び、菩薩の行を修して、十方諸仏如来を供養し、恒沙無量の衆生を開化して、無上正真の道を立せしめんをば除く。常倫(なみの菩薩の仲間)に超出し、諸地の行(初地から十地までの菩薩の行)現前し、普賢の徳(一切の衆生を済度する慈悲の行)を修習せん。もししからずは、正覚を取らじと。仏願力によるがゆゑに、常倫に超出し、諸地の行現前し、普賢の徳を修習せん。常倫に超出し、諸地の行現前するをもつてのゆゑに、このゆゑに速やかなることを得る三つの証なり。これをもつて他力を推するに増上縁とす。しからざることを得んやと。

 (現代語訳) 三つ目が第22願で、こうあります。わたしが仏となりましたら、他の仏国からわが国に往生したものを必ず等覚の位に至らせましょう。ただ、一切衆生を教化しようという願いをもち、弘誓のよろいを着て功徳を積み、諸仏の国に遊行しては菩薩の行を修めて十方の諸仏を供養し、無量の衆生を目覚めさせてこの上ない悟りに至らせようとする場合はこの限りではありません。そのようなものには、通常の菩薩としての初地から十地までの階位・順序を飛び越えて、衆生済度の徳が積めるようにしましょう。そうでなければ正覚をとりませんと。このように如来の願力により、通常の菩薩としての階位・順序を超えて、衆生済度の徳を積むことができるのです。これが速やかに菩提を得ることができる三つ目の証拠です。以上のようなわけで本願他力こそ菩提にいたるもっともすぐれたはたらきだというのです。そうでないことがあるでしょうか。

タグ:親鸞を読む
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