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還相のはたらき [『教行信証』精読2(その103)]

(16)還相のはたらき

 ここで、往相のはたらきだけでなく、還相のはたらき(衆生済度の利他行)もまた如来の本願力によるということが述べられます。第22願をどう読むかは難しいところがありますが、浄土に往生した菩薩が衆生済度の願をおこして普賢の徳を修習しようとするなら、普通の菩薩と違い、階位を飛び越えて利他のはたらきができるようにしたいと願っていると解するのが妥当なところでしょう。肝心なことは、このように還相のはたらきをすることができるのも如来の回向によるということですが、さて還相ということについていちばん問題となるのが、衆生利他のはたらきをするのはいつであるかということです。と言いますのも、真宗の大方の解釈では往生は来生ですから、還相のはたらきもまた必然的に来生ということになるからです。
 これではしかし、たとえば善導の「自信教人信」はどうなるのでしょう。今生では「みずから信じる」のみであり、来生にはじめて「人を教えて信ぜしむ」のでしょうか。法然も親鸞も浄土の教えに帰したのち、それを人々に教え弘めたはずですが、これをどう理解すればいいか。往相とはみずからが救われる相であって自利に当たり(願作仏心)、還相は他者を救う相で利他に当たりますが(度衆生心)、少し前のところで曇鸞が言っていましたように(3)、「自利によるがゆへにすなはちよく利他す」であるとともに「利他によるがゆへにすなはちよく自利す」であって、自利と利他はふたつにしてひとつです。
 還相はいつかという難問も、来生の往生という観経的往生観から離れ、信心のときに往生するという立場に立てば、たちまち片付きます。信心において往相回向がはたらくとともに還相回向も同時にはたらくということです。信心において往生がはじまるとき、利他のはたらきもまたはじまるのです。ただ、この「利他」のはたらきは、われらの側からしますと「他利」であることを忘れるわけにはいきません。われらが他者の救いをめざしているには違いなくても、「その本を求むれば」弥陀の本願力によってそうせしめられているだけのことです。往生できたのがわれらの手柄ではないのと同様に、慈悲のはたらきもわれらの手柄ではありません。

タグ:親鸞を読む
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