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『教行信証』精読2(その107) ブログトップ

本文8 [『教行信証』精読2(その107)]

(20)本文8

 最後に元照〈がんじょう、宋代の律宗の僧〉の文が引用され、他力についての段が終わります。

 元照律師のいはく、「あるひはこの方にして惑を破し真を証すれば、すなはち自力を運ぶがゆゑに、大小(大乗、小乗)の諸経に談ず。あるひは他方に往きて法を聞き道を悟るは、すべからく他力を慿(たの)むべきがゆゑに、往生浄土を説く。彼此ことなりといへども方便にあらざることなし。自心を悟らしめんとなり」と。以上

 (現代語訳) 元照律師が『観経義疏』においてこう言われています。この世界で迷いを脱し悟りに至ろうとしますと、自力の修行によらねばならず、そのために大乗・小乗の経典が説かれています。しかし他の世界に行って法を聞き悟りをひらこうとしますと、他力をたのまねばならず、そのために往生浄土の教えが説かれます。自力と他力の違いはあっても、悟りをひらくための方便であることでは何も異なるところはありません。

 元照はここで、自力も他力も道が異なるだけであって、いずれも「自心をさとらしめん」としていることにおいて何の違いもないと述べ、大事な観点を示してくれていますが、ただ、「この方にして」は自力、「他方にゆきて」は他力という言い方が気になります。この言い回しに、さらに「今生において」と「来生において」が加わりますと、もう何ともならない二元的世界になってしまいます。こなたには自力の世界、あなたには他力の世界があって、互いにふれあうことなく並び立つ光景。
 そうではないでしょう。一方では「わたしのいのち」を一生懸命に生きていますが、同時に「ほとけのいのち」に生かされています。「わたしのいのち」を生きることは自力で、「ほとけのいのち」に生かされることは他力ですが、これはふたつにしてひとつです。「わたしのいのち」とは別にどこかに「ほとけのいのち」があるのではなく、「わたしのいのち」はそのままで「ほとけのいのち」です。ただ、そのことに気づくかどうか。気づきませんと「ほとけのいのち」なんてどこにもありません。ただこのいのちが愛おしく、少しでも生きながらえようと涙ぐましい努力をするだけです。でもあるときふと、愛おしい「わたしのいのち」を生きながらえようとしているのも、実は「ほとけのいのち」にそうせしめられていることに気づかされるのです。
 自力は自力のままで実は他力です。

                (第6回 完)

タグ:親鸞を読む
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