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『教行信証』精読2(その108) ブログトップ

本文1 [『教行信証』精読2(その108)]

            第7回 ただこれ誓願一仏乗なり

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 他力につづいて、今度は一乗海について注釈が施されます。まずは一乗について。

 一乗海といふは、一乗(ただひとつの乗り物)は大乗(小さな乗り物である小乗に対して、大いなる乗り物ということ)なり。大乗は仏乗(声聞乗、縁覚乗、菩薩乗の三乗に対して、ただひとつの仏の教え)なり。一乗をうるは、阿耨多羅三藐三菩提(あのくたらさんみゃくさんぼだい、仏の悟り)をうるなり。阿耨菩提はすなはちこれ涅槃界なり。涅槃界はこれ究竟法身(くきょうほっしん、究極の真如・真理)なり。究竟法身を得るは、すなはち一乗を究竟するなり。異の如来ましまさず。異の法身ましまさず。如来はすなはち法身なり。一乗を究竟するは、すなはちこれ無辺不断(空間的・時間的に限定されない)なり。大乗は二乗・三乗(声聞乗、縁覚乗が二乗、それに菩薩乗を加えて三乗)あることなし。二乗・三乗は一乗に入らしめんとなり。一乗はすなはち第一義乗なり。ただこれ誓願一仏乗なり(それはただ本願の教えひとつです)。

 (現代語訳) 一乗海の一乗とは大乗ということで、そして大乗とは仏乗です。一乗をえるということは仏の悟りをえることで、仏の悟りとは涅槃の世界です。そして涅槃の世界とは究極の真如であり、それをえることは一乗を極めることです。それ以外の如来はなく、それ以外の真如もありません。そして如来とは真如のことです。一乗を極めることには空間的・時間的に限りはありません。そして大乗には二乗も三乗もなく、二乗や三乗は一乗に至らせようとするためのものです。一乗は出世間のこの上ない真理であり、それはただ本願の教えひとつです。

 親鸞はここで、『勝鬘経(しょうまんきょう)』のことばをもとにして、二乗も三乗もなく、ただ本願の一仏乗があるだけであると述べています。要するに釈迦のあらゆる教説は本願念仏の教えにおさまるということで、正信偈に「如来所以興出世、唯説弥陀本願海(如来世に興出したまふ所以は、ただ弥陀本願海を説かんとなり)」とあるごとくです。

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