SSブログ
『教行信証』精読2(その111) ブログトップ

如より来生す [『教行信証』精読2(その111)]

(4)如より来生す

 むこうから思いもかけず到来する、このことを無量寿経は「従如来生(じゅうにょらいしょう、如より来生す)」ということばで表現しています。それは弥陀が「いろもなし、かたちもましまさぬ」真如からかたちをあらわし、われらのもとへ到来することを意味します。「如来(タターガタ)」とは「如(タター)から来生した(アーガタ)」ということです。われらが往生すると言いますが、実を言いますとわれらは「いろもなし、かたちもましまさぬ」ところへ「往生する」ことはできません、「いろもなし、かたちもましまさぬ」真如がわれらのところに「来生する」のです。
 「真如が来生する」ということは、われらの側からいいますと、「真如に気づく」ということです。
 これまでずっと真如(ほとけのいのち)のなかで生かされてきたのに、そのことにまったく気づくことがなかった。ところが、あるときふとした拍子にそのことに気づく。ちょうど大きな船に乗っているのに、それがあまりに大きいものですから、海上を航海していることにちっとも気づかないようなものです。ところがあるときその船が台風による大波か何かでゆっくりとローリングをはじめて、「あれ、地上で生活していると思っていたのに、なんだ、船の上だったのか」と気づく。自分で気づいたのには違いありませんが、実は船から気づかされたのです。そのように真如もまた、真如自身からその存在を気づかされて、「なんだ、自分で生きていると思っていたのに、真如のなかで生かされていたのか」と思い知るのです。これが真如が来生するということです。
 これまで真如という船のなかで生かされてきたことに気づくということは、真如という船はこれしかないと気づくことでもあります。あれこれの船があって、それぞれの人がそれぞれの船に乗っているのではなく、この船にすべての人が乗り込み、倶会一処していると気づくことです。これが「大乗は二乗三乗あることなし。二乗三乗は一乗にいらしめんとなり」ということです。

タグ:親鸞を読む
nice!(0)  コメント(0) 
共通テーマ:学問
『教行信証』精読2(その111) ブログトップ