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一切衆生ことごとく仏性あり [『教行信証』精読2(その113)]

(6)一切衆生ことごとく仏性あり

 『涅槃経』から四つの文が引かれていますが、いずれも「真理はひとつである」ということ、しかし「ひとつの真理が機に応じてさまざまに説かれる」ということが言われています。これらの文の中でとくに注目したいのが、三つ目の文にある「究竟畢竟は一切衆生得るところの一乗なり。一乗はなづけて仏性とす。この義をもてわれ一切衆生ことごとく仏性ありととくなり。一切衆生ことごとく一乗あり。無明おほへるをもてのゆへにみることをうることあたはず」という箇所です。『涅槃経』のエッセンスは「一切衆生悉有仏性(一切の衆生にことごとく仏性あり)」にあるとされますが、問題は「われらを救う真理はただひとつ」であること、すなわち「ひとつの乗り物(一乗)しかない」ということと、この「われらにはみな仏性あり」ということがどうつながるのかということです。
 それをつなげるのが「一乗はなづけて仏性とす」というさりげない一文です。
 仏性とはどういうことかといいますと、それは仏になりうる可能性、すなわち「ほとけのたね」と言っていいでしょう。衆生はもちろん仏ではありませんが、そのなかに「ほとけのたね」を宿していて、いずれ仏になることができるということです。ぼくお好みの譬えを持ち出しますと、「おたまじゃくしは蛙の子」と言いますように、おたまじゃくしには「蛙のたね」が宿されていて、いつかかならず蛙になることができます。そのように、ぼくら衆生にも「ほとけのたね」が宿されていて、いつの日かかならず仏になるのです。そして「ほとけのたね」にいろいろな種類があるわけではなく、ただひとつでしょう。一切の衆生にひとつの「ほとけのたね」が宿されているのです。
 「一乗はなづけて仏性とす」という文は、「われらを救うのはただひとつの真理である」ということと、「われら一切衆生にはただひとつの仏性がもともと具わっている」ということは同じだと言っているのです。われらはわれらを救うただひとつの真理を求めていますが、実はそれはすでに仏性として一切衆生のなかにあるということです。「一切衆生ことごとく一乗あり」とはそういうことです。われらはただひとつの真理はどこにあるかと外を必死に探し回っているが、あにはからんや、それはすでにわれらの内にあるではないかと言っているのです。

タグ:親鸞を読む
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