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無明覆へるをもつてのゆゑに [『教行信証』精読2(その116)]

(9)無明覆へるをもつてのゆゑに

 話があまりに抽象的になりました。もっと身近なところ、ぼくらが生きている現場に引きつけて考えてみましょう。ついこの間、信国淳という人のことばを集めた『いのちは誰のものか』という本を読み、身に染みました。その中にこんな一節があります。
 「『まず世界というものがあり、そこへ私どもが生まれてきて、何年か何十年かそこで生活して、やがて死んでいくのだ』と考える。しかも『死んでいくのは自分一人で死んでいくのだ』と考える。そして『自分が死んでも、後には依然として世界が存続し、そこでは自分を除いた他の人びとの生活が相変わらず続けられるのだ』と考える。…私どもは、どうしても自分と世界とを別々に引き離して、それぞれ独立に存在するものと考える。そして世界は、自分の生まれる前から自分に先だって存在し、自分の死んだ後にも存続し、自分はただその中を何年か何十年かかかって通り過ぎるのだ、というふうにしか考えることができない」。
 確かにぼくらはこのように考えています。こんなふうにしか考えることができません。そしてこのように考えることのなかから「存在の不安」が醸し出されてきます。「あゝ、自分はひとり寂しくこの世から去らなければならない。自分が去っても、世界は何ごともなかったかのように続いていくのだ」と。これはしかし、自分がこの世を生きている事実を「見て」います、見ようと構えて見ているのです。そしてそのとき「自分と世界とを別々に引き離して、それぞれ独立に存在するものと考える」のです。これはそう考えるのがいいとか悪いとかの問題ではなく、ぼくらがものを見るときには、そのように見るしかないということです。仏教ではこれを分別と言いますが、これはこれ、あれはあれと分別して、それぞれを独立したものとして見ることしかできないのです。そのような操作を施してはじめて見ることができるのです。
 そのような操作をしているのは他ならぬ見ている自分ですが、でもそのことはブラックボックスの中にあって見ることはできません。ですから、ただひたすら「世界は、自分の生まれる前から自分に先だって存在し、自分の死んだ後にも存続し、自分はただその中を何年か何十年かかかって通り過ぎるのだ」と思い、一人寂しく世界から去っていかなければならないことに底知れぬ不安を感じるだけです。これが無明であり、「無明おほへるをもてのゆへにみることをうることあたはず」ということです。

タグ:親鸞を読む
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