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『教行信証』精読2(その117) ブログトップ

本文3 [『教行信証』精読2(その117)]

(10)本文3

 次に『華厳経』から短文が引かれ、そのあと一乗についてのまとめの一文がきます。

 『華厳経』にのたまはく、「文珠の法はつねにしかなり。法王はただ一法なり。一切の無碍人、一道より生死を出でたまへり。一切諸仏の身、ただこれ一法身なり。一心一智慧なり。力・無畏(力は「十力」、無畏は「四無畏」で、いずれも仏の有する徳)もまたしかなり」と。以上
 しかれば、これらの覚悟は、みなもつて安養浄刹の大利、仏願難思の至徳なり。

 注 「文珠よ、法はつねにしかなり」をこう読む。そして文珠の法、すなわち智慧の法を本願念仏の法と読む。

 (現代語訳) 華厳経にはこうあります。文珠の法はつねにこのようです。法の王はただひとつの法であり、すべての仏たちはこの一道から生死の迷いを出られました。すべての仏の仏身はただひとつの法身です。ひとつの心であり、ひとつの智慧です。十力や四無畏もまた同じです。
 このように真如一実の悟りというものは、みな往生浄土による利益であり、本願によって与えていただける、はかり知れない功徳です。

 先に涅槃経から「真理はただひとつである」ことを示し、ここで華厳経により「仏はみなただひとつの道を通って生死をでられた」ことを確認しています。そしてその「ひとつの真理」、「ひとつの道」とは本願念仏の教えに他ならないと結論しているのです。華厳経は釈迦の最初の説法を、そして涅槃経はその最後の説法を伝えた経典とされますから、この二つの経典を引くことで、釈迦一代の教えはつまるところただひとつ本願念仏の教えにおさまるということを示しているのでしょう。これは涅槃経や華厳経を奉じる人たちからしますと、何という我田引水かということになるでしょうが、親鸞の宗教体験からすれば、釈迦の教えは本願念仏をおいて他にはないのです。

タグ:親鸞を読む
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