SSブログ
『教行信証』精読2(その122) ブログトップ

分別知と無分別智 [『教行信証』精読2(その122)]

(15)分別知と無分別智

 本願の智慧の海は「深広にして涯底なし」ですから、声聞や縁覚、さらには菩薩の「はかるところにあらず」で、「ただ仏のみひとりあきらかにさとり」たまうというのですが、これは何を意味するかといいますと、これまた分別知と無分別智の違いに関わります。われらの知は、たとえ声聞や縁覚の知としても、さらには菩薩の知としても、しょせん分別知であるということ。ところが本願の智慧は無分別智ですから、われらの「はかるところにあらず」で、「ただ仏のみひとりあきらかにさとり」たまうのです。
 分別知とはあらゆるものを「これ」と「あれ」に分ける知です。「わたし」と「あなた」、善と悪、生と死など、あらゆるものを分別し、そして「あなた」よりも「わたし」、悪よりも善、死よりも生を選り好みする知です。これはそうするのがいいとか悪いということではなく、あるいは、どれほどすぐれた知識人であろうと一文不知の尼入道であろうと関わりなく、われらがものごとを見ようとするときにはそうせざるをえないことなのです。そうしないとものごとが見えないという意味では、われらが生まれつきかけている眼鏡のようなものと言えるでしょう。
 それに対して無分別智とは「わたし」と「あなた」を包み込み、善と悪の対立を飲みこみ、さらには生と死をひとつにしてしまう智慧です。それは「ただ仏のみひとりあきらかにさとり」たまう智慧で、われらの「はかるところにあらず」ですが、ただ、われらが本願の海に帰入しますと、その存在に気づかせてもらえるのです。本願の海に帰入するとは「わたしのいのち」がそのままで「ほとけのいのち」に他ならないと気づくことですが、「わたしのいのち」が「ほとけのいのち」であることに気づくということは、その智慧である無分別智に包みこまれるということです。
 ただ、無分別智に包まれるとはいえ、もとからの分別知が消えてなくなるわけではありません。消えるどころか、むしろ分別知がはじめて分別知となるのです。無分別智に気づくまでは、われらの知が分別知であるという自覚もなく、知るということについて無反省でしたが、無分別智に出あうことにより、「われらの知は分別知なのだ」と思い至るのです。そしてそれまでと変わることなく分別しながら、しかしこれは分別であると自覚することで、それに囚われることがなくなります。

タグ:親鸞を読む
nice!(0)  コメント(0) 
共通テーマ:学問
『教行信証』精読2(その122) ブログトップ