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死なんずるやらん [『教行信証』精読2(その123)]

(16)死なんずるやらん

 分別しながら、これは分別だと自覚することで、それに囚われなくなると言いましたが、それをこう言いかえることができます。無分別智に出あいますと、無分別智のなかに包みこまれながら(許されながら)分別しているのだと思えるようになると。分別知と無分別智は二でありながら同時に一であるということです。それは「わたしのいのち」と「ほとけのいのち」とが二でありながら同時に一であることに由来します。「わたしのいのち」は分別せざるをえないいのちでありながら、そのままで無分別の「ほとけのいのち」とひとつなのです。
 話を具体化したいと思います。ぼくは高血圧と不整脈をかかえて医者通いしながら毎日欠かさず薬を飲んでいますが、ときどき血圧が異常を示すことがあります(朝晩、血圧を測定しグラフにつけています)。そうしますと、途端にこころが平静を失い、本を読んでいても集中できなくなります。親鸞の述懐のように、「死なんずるやらんとこころぼそくおぼゆる」(『歎異抄』第9章)のです。そんなとき、ぼくは生と死を分別し、生にしがみつき死を忌み嫌っていることを痛感します。
 無分別智に出あうことができますと、生にしがみつき死を忌み嫌うのは人間として当たり前のことではなく、われらの分別がもたらす執着であることに思い至ります。無分別智からしますと、生と死は一体であり、生のない死はなく、死のない生もありません。その無分別智から「生きることは取りも直さず死ぬことであり、死ぬからこそ生きることができるのだ」という声がして、「そうか、ぼくは生と死を分別して、生を選び、死を遠ざけようとしているのか」と痛感させられるのです。
 しかし、そう痛感したからといって、「死なんずるやらんとこころぼそくおぼゆる」こころが消えるわけではありません。これまで同様、熱心に医者通いをして、何とかして血圧が下がることを祈念せざるをえません。でも、同時に思うのです、このように「わたしのいのち」が性懲りもなく分別して不安に駆られているのも、「ほとけのいのち」のなかに摂取されているからこそのことなのだと。そこから「なごりおしくおもへども、娑婆の縁つきて、ちからなくしくをはるときに、かの土へはまいるべきなり」(同)という親鸞のしみじみとしたことばが出てくるのではないでしょうか。

タグ:親鸞を読む
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