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『教行信証』精読2(その124) ブログトップ

本文6 [『教行信証』精読2(その124)]

(17)本文6

 次に『論註』から二つの文が引用されます。

 『浄土論』(『浄土論註』のこと)にいはく、「なにものか荘厳不虚作住持功徳(しょうごんふこさじゅうじくどく、阿弥陀仏が念仏の人をしっかりとたもち、かならず涅槃へと導くはたらき)成就。偈に、仏の本願力を観ずるに、遇(もうお)うて空しく過ぐるものなし。よくすみやかに功徳の大宝海を満足せしむといへるがゆゑにとのたまへり。不虚作住持功徳成就とは、けだしこれ阿弥陀如来の本願力なり。いままさに略して虚作の相(こさのそう、偽りの姿)の住持にあたはざるを示して、もつてかの不虚作住持の義をあらはす。乃至 いふところの不虚作住持は、もと法蔵菩薩の四十八願と、今日阿弥陀如来の自在神力とによる。願もつて力を成(じょう)ず、力もつて願に就(つ)く。願、徒然(とねん、いたずらであること)ならず、力、虚設(こせつ)ならず。力願あひかなふて、畢竟(ひっきょう)じてたがはず。ゆゑに成就といふ」と。
 またいはく、「海とは、いふこころは、仏の一切種智(完全なさとりの智慧)深広にして涯(きし)なし。二乗雑善の中下の屍骸を宿さず。これを海のごとしとたとふ。このゆゑに天人不動の衆、清浄の智海より生ずといへり。不動とは、いふこころは、かの天・人、大乗根(大乗に相応しい根性)を成就して傾動(きょうどう、フラフラする)すべからざるなり」と。以上

 (現代語訳) 浄土論註にこうあります。荘厳不虚作住持功徳成就とはどういうことでしょう。浄土論の偈に、阿弥陀仏の本願力は、それに遇うことができた人はこの世を虚しく過ごすことはなく、すみやかに功徳の宝海に満たされるのです、と言われていますが、このように迷いの世を虚しく過ごさせない不虚作住持功徳が成就しますのは、思うに、阿弥陀如来の本願力によるものです。いま少しく、虚作の相であれば住持することができないことをしめして、不虚作住持ということを明らかにしてみましょう。(中略)いま言いますところの不虚作住持というはたらきは、因位の法蔵菩薩の四十八願と、果位の阿弥陀如来の自在な神力とによるものです。願が力の因となり、力は願の果ですから、願がいたずらごとでないがゆえに、力も虚しいものではありません。力と願があいかない、違うことはありませんから、成就されるというのです。
 またこうもあります。海といいますのは、仏のあらゆるものの実相を悟った智慧は深くて広く果てがありません。ですから、そこには声聞や縁覚のまがいものの善の入る余地はありません。これを海のようであると言われるのです。こんなわけで、浄土論には浄土に往生する不動の人びとはみな清浄な本願の智慧海から生まれると言われているのです。不動といいますのは、浄土に往生する人びとは大乗の根本を成就していますから、どんなことにもふらふらしないということです。

タグ:親鸞を読む
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