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本願力とは名号 [『教行信証』精読2(その126)]

(19)本願力とは名号

 願いは、ただ漠然とそうあってほしいと思うだけでしたら、いわば中空にただよっていますが、本気でそう願う場合は、それが力となって願う相手に向かっていきます。力は通常ベクトルとして表現されますが、ベクトルの特徴は方向をもつことで、だから矢印で表されます。その矢印は願うものから願われているものへと一直線に向かいます。さて、願いがベクトルとなって相手に向かうとき、「たより」というかたちをとるのが普通でしょう。誰かに幸せになってほしいとこころから願うとき、その思いを「たより」にしたため相手に送り届けます。
 名号こそ本願が送り届けられる「たより」です。
 経に「聞其名号(その名号をききて)」(第18願成就文)とありますのは「たより」がわれらに届いたということですが、そのとき何が起こるか。われらの普通の「たより」を考えてみましょう。あるとき懐かしい人から思いもかけない「たより」が届き、何だろうと開封してみますと、「あなたが幸せになることは、わたしの幸せです」と書いてあります。そのときわれらのこころに何が起こるか。どんな不幸の中にあっても、この「たより」が届いただけで周りの景色がこれまでと大きく変わるのではないでしょうか。これまでは「どうして自分がこんな不幸な目にあわなければならないのか」という嘆きの海に沈んでいましたが、その海がそのままで功徳の大宝海に一変する。
 これが「遇(もうお)うて空しく過ぐるものなし。よくすみやかに功徳の大宝海を満足せしむ」ということです。
 さてここで繰り返し言っておかなければならないのは、本願力に遇ったからといって文字通り煩悩の氷が解けて菩提の水になるわけではないということです。むしろ煩悩がはじめて煩悩になるのです。それまでは煩いでも悩みでもなかったことが、本願力に遇うことで、われらの煩いのもとであり悩みのたねであることが明らかになるのです。しかし驚くべきことに、煩悩の氷を煩悩の氷とはっきり気づくことが、それがそのままで菩提の水であると気づくことでもあるのです。煩悩の氷とは別に、どこかに菩提の水があるわけではないのです。

                (第7回 完)

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