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頓教 [『教行信証』精読2(その128)]

(2)頓教

 このすぐ後に念仏と諸善との比較がなされ、その中に念仏は頓教であるのに対して、諸善は漸教であるという対比がでてきますが、先回りしてこの点について少し考えておきましょう。
 親鸞にとって本願念仏の教えが頓教であるというのは、本願の信をえたそのときに(本願に遇ったそのときに)、「すなはち往生をえ、不退転に住す(即得往生、住不退転)」(第18願成就文)ということです。親鸞独特の言い回しでは、それは「信楽開発の時剋の極促」(信巻)で、その一瞬に世界は一変します。これは、本願には「多生にもまうあひがたく、真実の浄信、億劫にもえがた」(序)いにもかかわらず、その本願に「あひがたくしていまあふことをえたり、ききがたくしてすでにきくことをえたり」という感動を如実に伝えてくれます。この「いま救われる」という点に親鸞浄土教のエッセンスがあることは間違いありません。
 ただ、この印象があまりに強いがために、生きることのすべてがこの一瞬に凝縮されてしまい、その後につづく時間の影が薄くなってしまいがちです。なにか「信楽開発の時剋の極促」で時間がフリーズしたかのように感じられるのですが、言うまでもなく、その後も時間は淡々と過ぎていきます。信はたしかに瞬間の出来事ですが、しかしその一瞬で信が終わるわけではありません。それは始まりにすぎず、信はその後ずっと継続されるのです。その後につづく信の生活(正定聚としての生活)こそ大事なのに、それがなんだか付録のような扱いをされることが多いのではないでしょうか。
 このことは還相の問題と直結しています。まず往相がありしかる後に還相があるというように両者を切り離すのではなく、往相がそのまま還相であるととらえてはじめて正定聚としての生活に内実を与えることができます。正定聚とは往生の旅のなかにある人であり、もちろん往相にありますが、同時にそれは還相でもあります。善導の「自信教人信(自ら信じ、人を教えて信ぜしむ)」で言いますと、自信が往相、教人信が還相です。自信ののちに教人信があるのではなく、自信がそのまま教人信であるということであり、そしてさらにひと言すれば、教人信は広く利他(曇鸞に言わせれば他利ですが)のはたらきと受け取るべきでしょう。

タグ:親鸞を読む
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