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『教行信証』精読2(その132) ブログトップ

本文3 [『教行信証』精読2(その132)]

(6)本文3

 念仏と諸善が、今度は教えを受ける機について比較対照されます。

 また機について対論するに、信疑対、善悪対、正邪(正定聚か邪定聚か)対、是非対、実虚(じっこ)対、真偽対、浄穢(浄心か濁心か)対、利鈍対、奢促(しゃそく、さとりが遅いか速いか)対、豪賤(ごうせん、功徳を得て豊かか貧しいか)対、明闇(みょうあん)対あり。この義かくのごとし。しかるに一乗海の機を案ずるに、金剛の信心は絶対不二の機なり、知るべし。

 (現代語訳) また念仏の機と諸善の機を比較しますと、信(本願を信じる)に対するに疑、善に対するに悪、正(正定聚)に対するに邪(邪定聚)、是に対するに非、実(真実)に対するに虚(虚偽)、真に対するに偽、浄(浄心)に対するに穢(濁心)、利(仏智を得て利根)に対するに鈍、促(悟りが速い)に対するに奢(遅い)、豪(功徳をえて豪富)に対するに賤、明(仏智をえて明)に対するに闇(無明の闇)となります。とは言うものの、本願の一乗海に入っている機を考えてみますと、すでに金剛のような信心をえた人ですから、もうあれこれの比較を超えた絶対不二の機というべきです。

 ここでも比較対照のあと、「しかるに」とありますが、先の場合と同じように、念仏者はもう他のものたちとの比較を絶していると読むべきです。本願念仏の教えが絶対無二であるように、それを受ける機もまた絶対無二であるということです。
 教えの比較対照が「自力対他力」に収まるように、それを受ける機の比較対照も「信対疑」に収まると言えるでしょう。善と悪の対比は、本願を信じるがゆえに善であり、疑うがゆえに悪であるということ、正と邪の対比も、本願を信じるがゆえに正定聚となり、疑うがゆえに邪定聚となるといった具合で、念仏者は信の人であるのに対して、それ以外の人は疑の人であるということに尽きます。「生死輪転の家に還来(かえ)ることは、決するに疑情をもつて所止とし、すみやかに寂静無為の楽(みやこ)に入ることは、必ず信心をもつて能入とす(還来生死輪転家、決以疑情為所止、速入寂静無為楽、必以信心為能入)」(正信偈、源空讃)ということです。
 さてこの「信対疑」の対比についても、先の「自力対他力」の場合と同じように注意が必要です。

タグ:親鸞を読む
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