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譬えるということ [『教行信証』精読2(その136)]

(10)譬えるということ

 本願は不可説不可称不可思議ですから、それを譬えで言い表そうというわけです。これまでも引用文の中に本願について多くの譬えが持ち出されていましたが、ここでは28もの譬えが並べられます。しかしそれらの譬えの一々にはこだわることなく、教えを譬えによって説くということについて考えてみようと思います。そもそも譬えというのはどんなときに必要になるでしょう。それは、伝えようとすることを直接的に言いあらわす手立てがないときに、伝えたいことに多少とも似ていることを取り上げて、「なほしかくのごとし」と言うわけです。
 さて、伝える相手が、伝えようとすることをすでに多少とも知っているときには、譬えは共感してもらえるでしょうが、相手がそのことについてまったき未知であるときはどうでしょう。たとえば子どもに、その子がこれまでまだ見たことのない動物について語ろうとして、それに似た動物を上げるとしましょう、「お馬さんのようだよ」と。そうしますと子どもは、それを手がかりにその未知の動物を頭に思い浮かべることができます。こんな場合は、その子がその動物をこれまでまだ見たことがないとはいえ、それと姿かたちが似た動物は知っているわけで、だからこそ譬えが有効になるのです。
 さて問題は本願です。本願についてまったく未知の人に、それを譬えで伝えることができるでしょうか。
 ここで譬えとして上げられているのは、大虚空、大車、蓮華、善見薬王、利剣などですが、これらはみな眼で見えるものであり、みなよく知っているものです。そうしたものを上げて本願を頭に浮べてもらおうというのですが、言うまでもなく、姿かたちが似ているものを上げているわけではありません。そもそも本願に姿かたちはありません。では何が似ているのかといいますと、そのはたらきにおいて似たところがあるということです。大虚空はどんなものも包みこみ、大車はどんなものも乗せ運ぶことができるといった点で本願と似ているというのです。
 なるほど、そうしたはたらきがよく似ていることは、すでに本願に遇った人は、その通りだなと共感できますが、まだ遇ったことのない人はどうでしょう。そこから本願とはどういうものかを思い浮かべることができるでしょうか。つづきを読みながら考えましょう。

タグ:親鸞を読む
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