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何か忘れてはいないか [『教行信証』精読2(その144)]

(5)何か忘れてはいないか

 ところがあるとき「何か大事なことを忘れてはいないか」という声が聞こえてきます。これが「ほとけのいのち」からの呼びかけですが、これを促しとも、催しとも言うことができます。催しと言いますのは、『歎異抄』第6章に「ひとへに弥陀の御もよほしにあづかつて念仏まふしさふらふ人を、わが弟子とまうすこと、きはめたる荒涼のことなり」とある、あの「もよほし」のことです。「何か大事なことを忘れてはいないか」という問いかけに催されて、もうすっかり忘れていたことが、忘れていること自体を忘れていたことがふっと蘇ってくるのです。
 「わたしのいのち」は「わたしのいのち」であり、他の「わたしのいのち」と競合しながら、自分の思いを遂げるしかないと思っていたのですが、「わたしのいのち」も他の「わたしのいのち」も「ほとけのいのち」としてひとつではないかと思い起こすのです。「ほとけのいのち」のことを思い起こすということは、もともと「わたしのいのち」の中に記憶としてあったということですが、記憶としてあること自体を忘れていたのです。それをふと思い出すのは、不思議な催しがあったからですが、その催しは他ならぬ「ほとけのいのち」からやってきます。「ほとけのいのち」を忘れてはいないかと「ほとけのいのち」から問いかけられるのです。
 これはしかしどういうことでしょう。
 「わたしのいのち」はもともと「わたしのいのち」のままで「ほとけのいのち」であるということです。ところが「わたしのいのち」は「ほとけのいのち」のことをすっかり忘れ果て、「わたしのいのち」はただ「わたしのいのち」でしかないと思い込んでいます。「わたしのいのち」のことをわたしが勝手に決めて何が悪いと思い込んでいる。そこに「ほとけのいのち」から「何か大事なことを忘れてはいないか」という問いかけがやってくるのです。その問いかけに「あゝ、そうだった」と自分の根源を思い起こすのです。「わたしのいのち」の底には「ほとけのいのち」があることを思い起こすのです。

タグ:親鸞を読む
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