SSブログ
『教行信証』精読2(その146) ブログトップ

法蔵の誓願 [『教行信証』精読2(その146)]

(7)法蔵の誓願

 阿弥陀仏はもとから阿弥陀仏ではなく、法蔵菩薩が成仏して阿弥陀仏となったということ、そして本願も、もとから弥陀の本願としてあるのではなく、法蔵の立てた誓願が弥陀の本願であるということ、ここには深い意味が隠されていると思います。無量寿経は阿弥陀仏を久遠の仏として説くこともできたはずですし、本願もその久遠の仏の願として説くこともできたはずなのに、そのようにはせず、法蔵菩薩の立てた誓願が成就することにより阿弥陀仏の本願となったと説くのはなぜか。試しに弥陀はもとから弥陀であり、その本願ももとからあったと説かれていたらどうかを考えてみましょう。
 法蔵が弥陀になったのではなく、弥陀はもとから弥陀であるとしても、一切衆生を救わずばおかないという願いをもった「無量のいのち」が存在するということは何も変わらないとも言えますが、ただそうだとしますと、「無量のいのち」と「わたしのいのち」の接点が見いだせなくなります。「無量のいのち」は「わたしのいのち」からあまりに遠く離れてしまうと言えばいいでしょうか。先ほど、「無量のいのち」から「わたしに帰命しなさい」という招喚の勅命があり、それにすかさず「あなたに帰命します」と応答する、と言いましたが、どうしてこういう呼応がありうるのか分からなくなるのです。
 先ほど言ったことで、もう一つ是非とも思い起こしておきたいのは、「無量のいのち」からやってくる招喚の勅命は「何か大事なこと忘れてはいないか」という問いかけでもあるということです。そしてその問いかけにもよおされて、「あゝ、言われてみると大事なことをすっかり忘れていた」と思い出すのですが、そんなことができるのはわたしの中にその記憶がもともとあったということです。その記憶と言いますのが、「わたしのいのち」は「わたしのいのち」のままで「ほとけのいのち」であるということですが、もし弥陀がもとから弥陀であるとしますと、「わたしのいのち」がそのままで「ほとけのいのち(弥陀のいのち)」であるなどありえないことです。
 しかし、弥陀がもとは法蔵であったとしますと話は変わってきます。

タグ:親鸞を読む
nice!(0)  コメント(0) 
共通テーマ:学問
『教行信証』精読2(その146) ブログトップ